一般社団法人 HITキャラクトロジー®心理学協会

グランドマスター紹介 instructor

情熱の扉を開けたHeartInTouchビレッジの静かなるファイター
荒川淳子(名古屋)

荒川淳子
ベーシックグランドマスター

先祖代々地元の寺の総代を務める家の長女として愛知県名古屋市に生まれ育つ。
23歳で結婚、転勤族の夫とともにアメリカ・ロサンゼルスをはじめ静岡や東京で暮らしたのち、名古屋に戻り実家に入る。二男一女に恵まれるが、41歳の冬、大学1年の娘を突然病気で喪うーーー。

先生(権威)に対する反発

二人姉妹の姉として、地域の代表や菩提寺の総代を代々務めているような家に生まれました。祖父母は、初孫だった私をずいぶん可愛がっていたようです。2歳下の妹は自分の我を通すタイプでしたが、私は反対にそんな妹の隣で母を困らせないよういつも黙っていました。

小学校の低学年くらいまではそんな調子で、クラスの中でもおとなしい、みんなの陰に隠れているような子で‥‥‥高学年になってようやく周りの輪に自分から入っていくようになったのですが、この頃の記憶で強く残っているのが先生(権威)に対する反発心です。

中学校に入ってからもそれは続きました。中でも忘れられない体験があります。作文を書く宿題があり、何をどう書けばよいのかわからないながらも私は一生懸命に取り組み、自分なりに満足のいく文章を書いて提出したら国語の先生に褒められたんです。私はそれがとても嬉しかったのですが、実は先生は私の作文を読んで、評価するどころかむしろ「変わったとらえ方をする子だ」と思っていたらしいことがその後判明して‥‥‥先生との懇談から帰ってきた母にそれを聞かされたときのショックは今も覚えています。

人の表と裏を見てしまったような不信感、まっすぐに向かい合ってもらえていなかった寂しさ。年配の温厚な先生で、好きな先生の一人だっただけに本当にショックでした。

でも、友人関係でストレスを感じたことはあまりなかったですね。噂話をする子とかボス的にふるまう子は好きではなく、心を開き、ストレートに話せる関係の子たちとだけ付き合えてきたように思います。もちろんそうじゃないこともありましたが、少なくともいじめに遭ったとか、そういう経験はありませんでした。

親の敷いたレールに乗ることを選択

大学は地元の女子大に入学。驚かれるかもしれませんが、大学4年生あたりからお見合いがスタートしました。なぜなら、先ほどお話した通り、私は代々地域の代表を務めてきたような家の二人姉妹の長女として生まれましたので、お婿さんが必要だったのです。お見合いをする前につきあった男性もいましたが、自分から強く好きになったり熱中するということもなく‥‥‥さらに私自身もともと自分に自信のあるタイプでもなかったので、親の敷いたレールに乗ることを自分が選択したわけです。それに、この家の長女として生まれた以上、大学に行っても4年生になったら結婚を視野に入れなければならないことは当然のことだと思っていました。

何度かお見合いをし、その中の一人と23歳の終わり頃に結婚しました。それが今の夫なのですが、彼との縁はとても不思議でした。彼とのお見合い後、実は一度お断りしたのですが、仲人さんの強い勧めもあってもう一度会ってみることになり、二度目に会ったとき、待ち合わせ場所に向かってくる彼を見て、私は直感的に「私はこの人と結婚するんだ」と思ったんです! 不思議でしょ?

長男の誕生

そしてお付き合いが始まり、3~4カ月後に結婚。すぐに長男を授かりましたが、その頃ちょうど夫がロサンゼルスに転勤となり、長男が生まれてもしばらくは日本とアメリカで離れて暮らしていました。今は世界中どこにいても無料でテレビ電話すらできる時代ですが、当時の国際電話というのは信じられないほど高額だったので、メッセージをカセットテープに吹き込んで郵送してもらい、それを長男に「パパの声よ」と聞かせていたものです。

その後、私も長男を連れてロスに移り住み、25歳のときには次男が生まれました。アメリカで二人の男の子を育てるという経験を1年半ほど続けてから帰国。しばらく東京で暮らし、マンションまで購入したものの、夫の転勤で静岡に引越しました。

このように、結婚してからは、長男が生まれる前に夫だけがロスに移ったりと転居の多い生活で‥‥‥今振り返ると、上の子が小学校に上がるくらいまではなかなか住居の定まらない、キャラクトロジー的にはいかにもスキゾイド的な生活でしたね。

落ち着いたのは、私が31歳くらいのとき。夫がいきなり会社を辞めて帰ってきまして(笑)。もちろん驚き、しばらくはまったく受け入れられませんでした。けれども実家の母からは名古屋に戻ってくるよう勧められ、また夫の再就職先も運良くすぐに名古屋で見つかったたこともあり、家族4人、実家に入りました。

後継者として育てることへの葛藤

長男は私の生家にとっては待望の男の子。周りからはとても可愛がられ、同時に家の後継者として期待もされていました。ただ、私はこの家の長女として生まれ育った中で、何か自分が重いものを背負っている感じが常にあったので、息子にはこの重さを引き継ぎたくないという思いは強かったです。

枠にはめられるような感覚や、「ねばならない」の中で生きなければならない感覚、自分はあと回しでまずは「家」「親」を考えなければならない不自由さ‥‥‥。ですので、家を継ぐにしても、彼にはもっと自由に生きて欲しいと思っていました。

でも、不思議なもので長男には、後継者としての立ち居振る舞いや態度などが自然と身についていました。家で行う伝統的な行事のときなどにそれが垣間見え、生まれ持ったものがあるのだなあとたびたび感じましたね。
次男は赤ちゃんの時から好奇心の塊のような子でした。でも私は、それをどうしたらいいのかわからなくて、受け止めきれずにかなり叱ってしまっていました。

今思えば、母が私にしていた子育てを私はそのまま次男に再現していたように思います。本来、私はとても自由で楽しいことが大好きな子どもでした。けれども伝統ある家に長男の嫁として嫁いできた母は、しっかりした跡継ぎに育てようと、そしてそれが娘の幸せだと信じて疑わず、私にしきたりや習慣を教え込んできました。
やがて32歳のときに三人目を出産。男の子二人に続く、初めての女の子でした。

娘との突然の別れ

娘は、大学1年生の冬、何の前触れもなく突然この世を去りました。19歳でした。
娘には親友がいたのですが、彼女と遊びに行っている最中に「頭が痛い」と言いだし、その直後に意識を失って‥‥‥小脳で起きた出血がすぐに脳幹に影響し、救急車の中で即座に心肺蘇生を行わなければいけないような状態だったそうです。

娘の親友だったA子ちゃんがそのとき受けたショックや痛み、傷の大きさは計り知れないものです。けれども、私たちにとっては、親友がそばにいてくれたこと、娘がその瞬間一人でなかったことはせめてもの救いでした。

娘を亡くしてから、私の人生は一変しました。

だいぶ長いこと、娘が生きられなかった人生を生きること、生きられなかった娘の代わりに生きることが私の人生の目的でした。もちろん頭ではそれは違うとわかっていましたが、それを手放してしまうことが寂しくて、悲しくて、苦痛で。だんだん娘を遠くに感じるようになってしまうような気がして。そんな時間が5、6年も続いたでしょうか。

この状態から抜け出すのに大きな役割を果たしてくれたのが、娘の最期の瞬間に一緒にいてくれた親友のAちゃんでした。娘を喪ってからの時間は、Aちゃんとともに歩いてきたという感覚が私の中にとても強くあります。

同じ経験を持つ仲間との出会い

少し時間を戻して‥‥‥娘を亡くしたばかりの頃、同じような経験をした人たちは皆、この苦しみを抱えながらどうやって生きているのだろうかとそれが知りたくてネットサーフィンしているうちに、新潟や東京などに子どもを亡くした親の会があることを知り、コンタクトを取り始めるようになりました。掲示板でお互いに心の内を吐露して想いを共有したり、情報交換をしたり。何度か東京での会合に参加したこともあります。

そのうちに地元名古屋でも会を始めようと思い立ち、他県で親の会を主宰されていた方のアドバイスをいただきながら、子どもを亡くした親の会「心のままに 月の光の会」を立ち上げました。自分の思いを話す場であり、情報交換の場でもあり、支え合える人と縁を繋ぐ場でもあるようにと毎月会合を開いています。ときには夜、そのまま飲みに出かけることも。 同じ思いを共有できる人が近くにいるのは本当に心の支えです。

キャラクトロジーとの出会い

ちょうど親の会を立ち上げる頃、運営者として自分にできることを増やしたいと思い、カウンセリングやセラピーの勉強を始めました。そしてある方のセラピスト養成講座でご一緒した方から紹介されたのがキャラクトロジー心理学です。第一印象は、とにかくキャラクトロジーって楽しそう! というもの。いつかこの講座も受けてみたいな、と思いました。
私が初めてキャラクトロジーの講座を受けた頃はまだ「キャラクトロジー」という言葉もできておらず、美穂子先生が名古屋で9カ月かけて教えてくださる夜のクラスをされていた頃のことです。

最初は講義を聞いていてもわけがわかりませんでした(笑)。言葉も難しいし、何より私は「エネルギー」なんてわからないと思っていましたし。でも、よくわからないけれども、面白かったんです。だから、当時のクラス構成でベーシッククラス、リレーションクラスとどんどん上のクラスへと学びを進めました。学べば学ぶほど深さがわかり、さらに自分も深くなっていく感覚が、確実にそこにはあったのです。

リレーションクラスに続いてヒーラークラスにも進みたいと思っていたのですが、そのタイミングで出版の話が突然舞い込みました。ヒーラークラスと執筆の両方を同時にこなすことはかなり無理があると感じ、考えた末出版を選択しました。もともと、いつかきちんとこの体験を記録に残したいとは思っていましたし、親の会に参加してくださっている方たちや同じような経験をされた方たちの役に少しでも立てればと思い、思い切ってやってみることにしたんです。

ですが、娘が突然倒れて亡くなるという経緯をもう一度追い、そこに触れ言葉にするのは苦しくもありました。でも書くと決めたからには書こうと、ときおり仲間に愚痴を聞いてもらいながら書き上げたのが『からだは心の道しるべ~闇と光とともに生きる~(http://amzn.to/1R7TOx9)』です。

今、キャラクトロジーのマスター講師になり、さらにマスターを育成できるグランドマスターになったのは、キャラクトロジーを知ることで楽になる人が増えるという確信があったからです。今自分の身に起こっているできごとの意味、自分がこの世に生まれてきた意味、そして具体的にはまだわからなかったとしても、何か目指すものを持って生まれてきたということが、キャラクトロジーを学ぶ中で自然と腑に落ちるからです。

どう生きれば良いのかまったくわからなかったかつての私は、キャラクトロジーを学ぶことでそれらを一つ一つ解消していくことができた、それは私の真実の経験です。ですので、私がご縁をいただいてキャラクトロジーをお伝えする方には、いつでもどんなときにも可能性に開くことができるということ、どんな経験にも必ずギフトがあることを、しっかり伝えていきたいと思っています。自分がハードルを一つ越えると、周りとの関係性もガラッと楽になっていきます。周りや自分の境遇を嘆くのではなく、自分が超えていくだけだということも私は実体験からお伝えできます。

娘の死でわかった「愛」

娘の死はもちろん途方もなく辛く苦しいできごとでした。けれども同時に、人生の中で最も学び深く、「自分に戻る」という大きな舵取りのきっかけとなるできごとでもありました。
彼女は私に「無条件に愛する」という体験を運び、「無条件に愛される」という体験を望んで生まれてきたと感じています。生後2~3カ月くらいまで、娘のことが愛おしくて愛おしくて、日に何度もなんども抱き上げては愛おしい気持ちとあたたかな温もりに包まれていたのを思い出します。まるで私の魂が、早い別れを知っていたかのように。

今は、娘の代わりに生きるのではなく、自分を生きる・自分の人生をという思いが強いです。自分を愛するってどんなことなのかな、ということを日々丁寧に感じています。娘のことがなければ、“愛”についてこんなに真剣に考えたり感じたりすることはなかったでしょう。また、「肉体の死=存在がなくなる」ではないという確信を持つようにもなりましたし、「魂の大きな流れの中で生きている」「自分で自分の人生を決めてこの世界に生まれてきている」という、それ以前にはまったく私の中になかった世界観に今は深く納得しています。

私にずっと大きくのしかかっていた「家」というものも、自分が自分にかけていた制限でしかなかったと今は理解しています。さらに今は、その制限を外していくチャレンジをとても面白いと感じています! 家を優先せず自分を優先する・家や家族にとらわれず、まずは自分のニーズに自分が応えるーーーつまりこれは、私にとって自分で自分を自由にしていく、自分で決めてきたプロセスなのです。そして、私が制限を外すたびに、家族や近しい人たちの制限も自然に緩んでいきます。

まず自分自身の人生を自分が存分に生きる。何よりもそれをこれからも大切にしていきたい。そこを大切にせずに他の人のケアはできないと思うのです。

ヒーラークラスを卒業し、ベーシックグランドマスターとなった今、自分の進む方向として驚くほどはっきりしているのが、この学びとスキルをさらに親の会やグリーフケア(グリーフ=悲嘆。大切な存在を亡くして悲嘆状態にある人のケア)に生かしていくということです。ようやく自分の中に、自分だけの人生の地図が描けたと思っています。

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公開日:
最終更新日:2019/09/19