【エントリーNo.020】
鈴木 美智子
作品タイトル : 生きる事を諦めないで!幸せは自ら掴み取るもの。幸せの転機は遠い所でなく、すぐそばにある!
「私より幸せな人がいるのかしら」「目で感じる光は無いけれど、心はいつもいい天気」
こんな風に言える人が、果たして世の中にどれだけいるのだろうかと、母の言葉を聞きながら、幾度と無く考えた。
かく言う母も、過去に自ら命を絶とうとした経験者である。
幼少期の貧困、苦労だけなら耐えられた。
しかし、二十二歳での失明は、母に死を決断させた。
「事故や自殺のニュースばかり聞き、『こんな立派な人でも死ぬのに、両目見えない私なんて死んで当たり前』と、自分に言い聞かせ、気持ちを固めた。買い集めた睡眠薬を準備し、いざ決行となると、涙が止まず、薬を口に入れたり出したりしながらも、結局飲み込むことが出来なかった。その時、『生きるのも大変だけど、死ぬのはもっと大変』と痛感した」と、母は話す。
死を諦め、マッサージ師として生きようと決めた母に、今度は電車の事故が襲う。電車に乗る際、入り口と間違えて、連結部に乗ってしまい、気付くと同時に発車してしまった。掴む所の無い車体を抱きかかえ、カーブで振り落とされそうになる中、バランスを取りながら、必死で耐えた。「今まで死にたい死にたいと思っていて、ようやく生きようと決めたのに、こうして死ぬんだな」と、死が脳裏を過る。しかし、神様は母を見離さなかった。諦めかけた瞬間、次の駅に到着し、救助された。
運良く、電車が各駅停車であった事、優れた運動神経を兼ね備えていたという幸運が重なり、母の命は助かった。
結婚、離婚後、母は女手一つで私を育てた。「子供が少しでも大きくなるまでは生きていなきゃ」という責任感が、死にたい気持ちから遠ざけた、と母は言う。
子供の成長を生き甲斐としながらも、「子供に負担がかかる」と考えた母は、真の生き甲斐を見つけようと、暗中模索していた。
そんなある日、「第一回視覚障害者マラソン大会開催のお知らせ」が、母の耳に留まる。
「視覚障害者マラソン大会が出来るんだって。お母さん、走ってみたい。一回限りだろうから、明日から一緒に走って!」
四十二歳、体重八十kg、全盲の母のその言葉に、正直驚きは隠せなかったが、私の母に二言は無い。
唯一の家族である私は、必然的に伴走者となり、翌朝から手を繋いで、家の前の神社をくるくると走り始めた。
三週間の練習の後に迎えた大会当日、私の心配とは裏腹に、初の三キロレースで、母は見事優勝。毎年大会は続くと聞き、以降も二人三脚での練習と大会の日々が続く。
「継続は力なり」「出来る人と違って、出来なければ人の何倍も何十倍も努力しないといけない」「降るからと言って休んだら、走る日が無い」そう言いながら、どんな悪天候でも休まず走り、たゆまぬ努力を重ねた母は、マラソンが真の生き甲斐となり、いつしか、「一回限り」を「一生走る」に言い換えた。
マラソンは、母の生活をガラリと変えた。
閉じ籠りがちだった生活から、毎週末、全国各地のレースを走り回る様になった。情に厚い母であったが、運動不足、肥満とは、きっぱり縁を切り、健康を取り戻した。「後ろ姿は二十代みたいだよ」と言われる度に、母は、スキップをしておどけて見せた。
元来明るい性格の母であったが、積極的に世界に飛び込んでいき、交流する社会がぐんと広がった。
一般ランナーとの交流が増える中で、フルマラソン経験者の話を聞く機会も増えた。
「フルマラソンを走ると、足が棒になると聞くけど、どんな風になるのか、自分で体験したい」と、走り出して三年目に、母が初フルの舞台に選んだのは、あの有名なホノルルマラソン。「一度きりのチャンスだろうから行こう」と、ノリノリの母。中学三年、受験の年で迷う私に、「一週間学校休んで落ちる様なら、休まなくても落ちる」と、母はきっぱり言い、共に参加。
想像を超える苦しみで、「死にそう」「二度とこんな事はやめよう」と言いながらも、励まし合いながら、何とかゴール。
直後は疲労が大きすぎたが、日が経つにつれ、走りきれた感動、達成感が沸々と沸き上がり、「又走りたい」という気持ちになり、帰りの飛行機の中では、「来年も絶対来ようね」という言葉に変わっていた。
一度きりのつもりで走ったホノルルだったが、すっかり魅了された母は、亡くなる半年前の大会まで、三十二年間、参加を続けた。
市民ランナーの目標である、四時間以内でのフルマラソン完走「サブ四」も達成し、次に母が掲げたのは、走歴十年を記念し、過酷な百キロウルトラマラソンへの挑戦。「十年間でどれだけ力がついたか試したい。一生一度の思い出作りに」と、自己の限界へのチャレンジを決めた。
「もし完走出来たらと思うと、今から胸がドキドキする。感激で腰が抜けちゃうんじゃないかしら。夢と希望と不安といっぱいでいいね!」と、レース直前に母は話していた。
初回は惜しくも時間外完走であったが、勿論母は翌年リベンジし、時間内完走を果たした。腰を抜かす所か、ウルトラマラソンの魅力にも触れた母は、計八回の百キロレースを走破した。
「三キロから始めたマラソンが、百キロまで走れるようになった。正に継続は力なり。マラソンに出逢い、生きる喜びを感じられた。この喜びを、1人でも多くの人に伝えたいし、味わってほしい」と言い、人生に光をくれたマラソンの素晴らしさを伝えながら、母は生涯走り続けた。
「今まで多くの方にお世話になってここまで来られた。これからは、少しでも誰かの役に立てる生き方がしたい。自分の体験を無駄にせず、活かしていきたい。いつか本を書きたい」と言いながら、母は毎日点字で日記を書いていた。
その母だが、恒例のホノルルマラソンより帰国後一週間で癌が発覚、病勢が強く、半年で天国に旅立ってしまった。
「ランナーの母らしい」と、皆さんに言われる。「そこはゆっくりで…」と私は願っていたのだが、叶わなかった。
母と過ごした四十七年間、母の伴走をした三十五年間を、「本当に親孝行だね」と、多くの方に言われたし、母にもいつも感謝された。しかし、私としたら、「私より幸せな人がいるのかしら」「目で感じる光は無いけれど、心はいつもいい天気」と言いながら、輝いて生きている、その母の側に居られる事が本当に幸せで、私の原動力であった。又、次々と自己の限界にチャレンジし、それをクリアする母の姿は、私をワクワクさせ、「不可能なんて無い」と思わせてくれた。
「苦しみが多かったからこそ、喜びが人一倍大きく感じられる」
「私にはもう悲しいことなんて無い。走って走って全て乗り越えた」と、笑いながら言い切る母は、どの様な試練も乗り越える自信が出来ていたのだと確信する。
実体験の宝庫を持つ母にしか伝えられない事が沢山ある。
今後私は、母の「伴走者」から「後継者」となり、母の強い意思を継承する。
母の様々な体験が、1人でも多くの方の原動力、レスキューに繋がる事、又、マラソンの魅力に触れる機会となり、1人でも多くのランナーや伴走者が誕生するのであれば、それは母にとって最高の喜びであり、母の生きた証である。
「生きる事を諦めないで。幸せは自ら掴み取るもの。幸せの転機は、遠い所でなく、すぐそばにある!」
母の思いが、1人でも多くの方の心に届きますように。
このエピソードの中で、あなたは何によって癒されたと思いますか? : 母の生き方を側で見ていて、私自身の原動力となった。
【作品応募者について】
どんな職種・お仕事をされていますか? : 看護師