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【エントリーNo.133】 佐野 由理 「生きることは、自分を取り戻していくこと」

【エントリーNo.133】

佐野 由理
作品タイトル : 生きることは、自分を取り戻していくこと

●死んだように生きていたら、死ぬことができる病気になった
私にとって仕事は楽しかったけれど、ずっとどこか自分を追い詰めているような感覚があった。「求められている成果が出せているのか?」「自分の成長の役に立つのか?」ということが常に気になり、苦しくなってしまう。もっと言えば当時はそんな自覚もなく、仕事をすることが自分の存在を認めてもらう手段だったから、辛さを感じていることさえ分からなくなっていた。

徹夜続きのしんどい仕事がひと段落して燃え尽きたようになっていた時。続くコロナ騒ぎの報道の中で不安になり、精神的にも不調が続いていたある日、体の異変を感じて病院に行かざるを得なくなった。それまでずっと身体を無視して働いてきて、常に鞄には痛み止めが入っていたけれど、ついに見て見ぬ振りができなくなったのだ。
そして、検査の結果告げられたのは「直腸癌ステージ3」だった。

病気がわかったとき、私はショックを受けたけれど、どこか驚きはせず、「ああ、こんな生き方をしていたら、そうなってもおかしくないな」ということが頭に浮かんだ。死にたい気持ちも感じていたし、自分が何のために生きているかも分からなくなって、死んだように生きていた。
自分が「このまま生きるよりマシだ」と感じていたんだろうなということは、どこかで納得していた。けれど逆にいうと、「そんな状態で死んでたまるか、納得できない」と思った。

それでも、結構な確率で自分が死ぬかもしれない、ということはかなりの恐怖だった。知っていたけれどみないようにしてきたことを、いきなり目の前に突きつけられたような感覚。死ぬ瞬間を想像した時の恐怖よりも、その恐怖を抱えながら生きることの恐怖が苦痛だった。死が近く思えたとき、何かに取り組むこと、今生きていることに意味を感じられるだろうか。私はその状態に陥ることが恐怖で、実際しばらく普通の生活が送れない状態に陥った。

精神的にバランスを崩した理由は、死の恐怖以外にもう一つあった。私は手術をすることが、どうしても受け入れられなかったのだ。私は直腸癌だったので、場合によっては一生ストーマになるかも知れないと、手術前に主治医に言われていた。それでも前向きに生きている人がいることは知っている。けれど私にとっては、手術だけではなく、それがたまらなく怖かった。元の生活に戻れなくなるのではないかと恐れていた。

だから私はどうにか手術から逃げたくて仕方がなかった。手術なしで治ったという人を見つけては会いにいき、あらゆる代替療法を探して試してみようとした。…けれど、それらは全て、恐怖から動いたことだった。
私は今、西洋医学も、代替医療も否定はしない。それぞれ必要な人、必要なタイミングがあると思っている。けれど、私の場合、最初の意図が「どうにかして手術から逃げたい」だったから、今思えば当然のようにうまくいかなかった。本当にそれが良いと思って、ポジティブな意図を持って選択できるか。そのスタートラインが大切なのだと、嫌というほど実感した。
当時もそれはどこかでわかっていたけれど、恐怖や怒りを感じ切ることができずに、ずっと感情的反応の中にいたのだと思う。そして、そのようにポジティブになれない自分を責めた。

逃げ回っていても結局毎日不安に襲われて眠れず、世界や周囲の人への怒りが噴出し、こんな状態で良くなるはずはないということはどこかでわかっていた。精神的に崩れていく中で、私はカウンセリングを受けてみようと思い立った。癌から生還した人のブログの中にカウンセリングのことが書かれているのを見つけたのだ。もともと私は、小さい頃から生きづらさを感じ、何のために生きているのかを考えているような子どもだったから、心理学や精神的なものにはずっと興味を持っていた。コーチングは学んだことがあったが、どこかしっくりこない気がして、カウンセリングなら意味があるのかもしれないというほのかな期待もあった。

●自分の話を一番聞いていなかったのは自分だった
その頃に受けたセッションで、印象的だったことがある。
自分の中で、生きたいという気持ちと、相反するように「死にたい」という言葉が頭の中に流れるのがどうしようもなく怖かった。こんなにも死が怖い、死にたくないと思っているにもかかわらず、コントロールできない死にたい気持ちがどこから来るのかわからなくて、「こんなことを考えていたら本当に死んでしまうんじゃないか」「だから病気になったんじゃないか」と、自分でもどうしたらいいのかわからなくなっていたのだ。

そのセッションではその声が聞こえる時の感覚を一緒に感じさせてもらった。そして、鳩尾の奥にある痛みを、しばらく感じていたら、涙が出てきた。
私はずっと、母に話を聞いて欲しいと思っていた。いつも記憶に出てくるのは、母が仕事帰りに車で迎えにきて、預けられていた祖母の家から自宅へと帰る場面だった。早生まれで内向的だった私は、途中から編入した幼稚園に馴染めず、毎日が苦しかった。けれど、忙しそうにしている母には言い出せず、でも本当は気づいて欲しかった。「幼稚園どうだった?」と聞かれると、「別に。忘れちゃった」と答えながら、声を顰めて泣いていた。運転している母は、後部座席からどこか遠くて、縋るような視線に気づかなかったのかもしれない。
私にとっては、母への恨みの、象徴のような出来事だった。

その場面には今までも何度か立ち返ってきたけれど、その想いを手放せずにいた。そして何より、そんな自分が苦しかった。けれど、自分の体と一緒にいた時、頭に浮かんだのは、「自分の話を一番聞いていなかったのは自分だった」ということだった。それを感じた時、自分に対して本当に申し訳なくて、いっそう涙が溢れてきた。
自分の中にある「死にたい気持ち」が怖くてたまらなかったけれど、「生きたい、生きたい」と言い聞かせたり、それを止めようとしたり、ましてやそんなことを考えている自分を責めてもしょうがなかったんだ、と思った。自分の感情にはそれが生まれてきた理由があって、それに気づいて欲しいと叫んでいる。そして「そういう気持ちがあるんだな」と、否定せずに、受け入れてあげるだけ。そしてそれを、変えたりしない、ただ一緒にいてあげる。私にはずっと、それができなかった。困ったことが起きたら「なんとかしなきゃ」と思っていた。何かをしなければ悪くなってしまう、そんな風に思っていた。

さらに思い出したのはある演劇のワークショップに参加したときのこと。二人で、自分が相手に感じている感情を表現し合うというワークがあった。相手の様子に集中しながら、悲しいとか、寂しいとか、喜ばせたいとか、湧いてくるものをただ口にしていく。自分がやってみて指摘されたのは、私の表現は「どうしたいか」という思考が多いということだった。「寂しい」ではなく、「こっちに来て欲しい」。「かわいい」ではなく「励ましたい」。ただ自分の中の感情を表現するのをすっ飛ばして、その感情への対処を口にしてしまうのだ。
この話を聞いた時、自分が自分の感情と一緒にいられなかったのと同じく、人の感情にも一緒にいられなかったんだなと思った。自分だけでなく、相手がネガティブな感情にあることが耐えられないから、すぐに何かしてあげようと思ってしまう。そして、それは、母が私にしてきたことであり、母が母自身にしてきたことのようにも感じた。母はネガティブな感情をポジティブにしようとしたように見えた。私はネガティブを感じないように、思考で蓋をした。

人も、感情も、全てのものは存在を認めて欲しいのではないかと思う。どんなものも存在の奥底には愛があって、それを受け取って欲しいと思っている。受け取ってあげると、それは愛である姿を思い出す。そしてひとりでに変わる。
病気に対しても、それさえ無くなれば安心できるのに、と思っている私は、病気のことを受け止められてはいないんだろうな。私が自分を、身体を、痛めつけた結果生まれたことなのに、それを労わることができずに、結局は邪魔者だと扱ってきた。それでは主張もしたくなるよなあ、とそんな風に理解はできるような気がした。

●手術を決められない自分に向き合う
カウンセリングの中で、気づくことはたくさんあったけれど、精神的な動揺はなかなかおさまらず、私は手術を受けるかどうかに悩み続けていた。私の感情的反応は強固で、「するか・しないか」という2元の問いの前に立つと、とたんに思考が周り出して、どちらの場合も悪いシナリオを描き始めてしまうのだ。そして、これは私が、ずっとやってきたことだった。

私は、「決めることが苦手」とずっと自分のことをそう思ってきた。そして、決められない自分を責めてもいた。高校受験で合格した学校への進路選択から始まり、最近では息子の保育園を選ぶときも、ずっとずっと悩み続けたし、病気がわかってからは、いよいよ自分で自分のことを決めなければ後悔すると思って、体調を悪くするくらい悩んで、また自分を責める悪循環だった。「責任を取りたくないダメな自分」。ずっとそんな思いがどこかにあった。
 
けれど最終的に、自分が「ああ、これでいい」と思えた瞬間があった。ずっと手術を決められなかった私が、覚悟を決められたのは、紹介してもらってお会いした、ある外科医の先生の在り方に触れたときだ。思えばずっと保育園が決められなかった私が、納得できたのは、相談した尊敬する上司の、教育観に心から共感したからだった。
人に出会って、その言葉に心が、本当に動いたときに自分の心が決まる。そう考えた時に、本当は、私は決めてきたんじゃないかとも思う。

「決められない自分」を不変だと思えば、そう思えてしまうけれど、自分なんて、どんな人と一緒にいるかで常に変化するのだから、いろんな人と出会って、その時に引き出される自分に出会っていくしかないのかなと思う。そう考えると、何が自分なのだろう。一人でいる時の自分なんて、自分の一部分でしかないのかもしれない。決められない、というのは情報が足りないだけ、とアドバイスをくれた人がいて、もう情報は十分集めたけれどやっぱり決められないと悩んだこともあった。けれど、それは半分正解で、情報というよりも、決められるだけの自分に会えていないということなのかなと思う。
そう思えるようになったのはセッションの中で、自分の中の二元性を両方持つようにアドバイスしてもらいながら、そんな風に徐々に徐々に、人に助けを求められるようになってきた結果だった。

手術を受けることに悩みに悩むことも、私にとっては受容のプロセスだったようにも思う。
手術を受けても再発のことを恐れ続けなければいけないなんて、それでは私は苦しみから抜けられないのではないか。そんなことを考えながら悲観的になっているところもあったけれど、終わってみれば、起きたことを受け入れるしかない気持ちになっていた。

●自分以上に自分を信じてくれる人
それでも手術後は身体が回復するまでが苦しくて、外出もままならず、一日中寝ていなければいけない時間が数ヶ月以上続いていた。「本当に日常生活ができるようになるんだろうか?このくらいなら死んだほうがマシなんじゃないか?」ということさえ、また頭によぎった。

ヒーリングも受け始めたのは、この頃だったと思う。
それまでヒーリングのことは話に聞いていたのに、なぜか受けようと思えなかったのだ。
今思うと、最初から受けていればどんなによかっただろう?と後悔も感じるけれど、おそらく
自分の精神状態が変わったのだろうと思った。手術を受けることを決めてから、段々と出会えるものが変わっていった感覚がある。

外出することもできずに、横になっているしかなかった時も、
本当にいつかこの状態から抜け出せるのか不安で仕方がなかった時も、
ヒーラーさんはただただ側で、寄り添い続けてくれた。
感情だけではなく、その経験から、身体の力を信じること、
いつか超えることができることを、伝え続けてくれていた。

●母への怒りと、その下にある愛
サポートのおかげで、言われているよりは早く、身体が回復していって、
ヒーリングやカウンセリングの中で出会って行ったのも、やはり母への思いだった。
「話を聞いてもらえない」、その奥にあったのは、コンタクトがもらえない、意識を向けてもらえないことの孤独と、激しい怒りだった。
そして私が怒りの存在を感じる場所は、決まって病気のあったお腹の下の方でもあった。

自分を庇護してくれる唯一の存在である親、特に母親に対して、殺意に近いほどの激しい怒りを向けることは、子どもにとっては、自分の存在を脅かすことだ。その怒りを感じることが、私にとってとても怖いことだった。それでも共に感じてもらい、この怒りを自分に感じさせることを許すことで、自分の中の母への深い愛を思い出していった。

キャラクトロジーに出会うことができてよかったことの一つは、許すことができない自分の奥に、必ずエッセンスの自分、愛が眠っていることを信じることができるようになったことだ。そして、本当に自分を傷つけるのは、愛を向けてもらえなかった体験ではなく、それによって自分の中の愛を捨て去ってしまった自分自身であることを知った。
人に心から寄り添ってもらう経験がなかった私にとっては、ただ判断せず、隣にいてもらうという体験をするだけでもとても大きな体験だ。けれどその先で、自分が本当にやりたかったこと、放棄して、捨て去ってしまった自分自身を認識し、自分の手に力を取り戻すことを信じてもらえることは、どんなに大きな愛だろうかと思う。

●自己責任を取れることの喜び
私が「決めること」をせず、逃げ続けたかった「責任を取る」ということは、本当の意味で、自分に責任を取るということではなかったように思う。それまで私が感じていた「責任」は、どこか失敗したら、間違えたら、大変なことになるとか、責められるとか、そんなイメージがあって、できるだけ取りたくない、離れたいと思っていた。それはそのまま、私が親との関係の中で感じてきた、失敗を許されない感覚に近いものだと思う。
けれど本当の自己責任とは、外側に起きていることが自分の内側の反映であることを認め、ただ、それを自分のために変えていくこと。そこに自分を責める感覚、ジャッジをすることは必要なく、誰に要求されるわけでもない。自分の行きたい場所に向けて、自分のためにすること。「決める」「責任を取る」ということは、怖さはあったとしても、喜びに満ちたものなのではないかと感じられるようになってきた。

手術を受けた後も、ずっとどこかで再発の不安を抱えていて、厳しく食事制限をし、微かに残る自分の中の「死にたい」の声に怯えていたけれど、自己責任の意味を知り、自分を取り戻していく過程で、徐々に安心感と生きることの喜びを感じられるようになっていった。
私はずっと、お医者さんから言われるままに、手術や投薬をして、そうすれば病気が治るということには、大きな違和感があった。自分の身体なのに、私にできることは何もなく、何かに縋らなくてはいけないのだろうか?そんな不意に災難がどこかから降り掛かってくるような気持ちでいることに耐えられなかった。
自分の人生を自分次第で変えられるということは、とても安心感があることだと感じる。

そんな安心感を感じていった時に、母との関係性にも変化が現れるようになっていった。
私はどこか、ずっと一人で子育てをすることに不安があった。だから母の口うるささ、私のペースを尊重してくれないことを嫌がりなら、仕事の忙しさを理由にして近くに住み、子育てを手伝ってもらってきた。自由であることを望みながら、それはとても苦しいことでもあると感じ、自由にすることと、自分が楽でいられることが、両立するとは思えずにいたのだった。
けれど徐々に自分の力を取り戻していく過程で、母が差し出してくれるもの全てを受け取らなくてもいいし、逆に全てを拒絶しなくてもいい、自分に必要なものだけを受け取ってもいいことということ。そして自分の力で自分の好きな場所で生きることができると感じられるようになって、今は紆余曲折ありながらも、母が住む東京から離れて、自分が住みたい場所を選ぶことができるようになって、遠く離れた関西に住んでいる。完全に、と言えるかどうかはわからないけれど、やっとこの歳になって自立、というものを体験しているようにも思う。

●生きるということ
プロセスの渦中にいるとき、「いつになったらこのプロセスから抜け出せるのだろう?」「どこまでいったらゴールにたどりつけるのだろう?」と途方にくれる感覚と共に思ってきた。
成果主義の中で、目的達成のための生き方をしてきた私は、「プロセスを楽しむ」などということは頭では理解できていても、感じることができなかった。癒されることさえもどこか、急いで達成しなければいけないゴールのように思っていた。
けれど最近、この手放してしまった自分を取り戻し、新しい経験をしていくことこそが生きているということで、それは見える景色を変えながらずっと続いていくものなのではないかと思う。
現に、私にとって大きな存在であった母との関係が紐解かれていくにつれ、父との関係の課題が見えたりもしているが、途方にくれる感覚ではなく、道のりは長いかもしれないけれど、これまでは感じられなかった喜びの気配と共に感じている自分がいる。そして、それと共にいることができる、カウンセラーやヒーラーという仕事はとても喜ばしいもののだとも思う。

どこまでいっても深まり続ける道の先を、共に歩んでくれている人がいることはどれだけ心強いことだろう。時に寄り添い、時に自己責任を求めて信じてくれる、その愛のあり方に、心から感謝を送りたい。

このエピソードの中で、あなたは何によって癒されたと思いますか? : HITメディカルヒーリング、カウンセリング、その人の存在

【作品応募者について】
どんな職種・お仕事をされていますか? : カウンセラー、ブランド戦略コンサルタント

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