ハートインタッチアワード2022
こころのレスキュー大賞
受賞作品
【エントリーNo.134】
高橋 眞理子
作品タイトル : 8年かけて統合されたプロセス
私がキャラクトロジー心理学に出会ったのは2014年のこと。心理プロセスという、当時聞いたこともなかったグループワークに参加したことがきっかけでした。そのとき体験したことの衝撃はあまりに大きく、今振り返ると「それ以前とそれ以降」とで、私の世界の理解はまるで別物になったと思うほど、あれは大きな分岐点でした。
私はそれ以前から心理学に興味をもっていて、自分の無意識を意識化することで、現実の不具合を変えられると学んでいました。箱庭や夢分析にも触れながら、自分の中の無意識のありようをなんとかしたい。それができれば、自分の現実が変わるはず、と知的な理解を求めていました。その方法以外に「何かをわかる」ことはできないと思っていたからです。
しかし初めての心理プロセスワークの衝撃は、思考には全く想定外の体験が進行して行き、その瞬間の感情エネルギーの体感によって、ものすごい情報量の「わかる」と同時に「わからない」の混乱が起きました。
これまで私の理解を担っていた思考は、何とかそれに追いつこうと必死に言葉にかえたがりました。「旧知の何か」に置き換えようと、興奮してくるくると言葉を探すけれど、言葉で区切って説明するには、あまりに多層の出来事で、大混乱です。「それを言葉に変えようとせず、ただ感じて」と止められるに至って、頼みの思考は全く形無しでした。
その時私は、少しばかり「恥をかかされた」気がして、このまま知らずにはおけないような欲も持ち、キャラクトロジー心理学の世界を探索し始めました。私(の思考)が私のことを把握できないなんて、困るのです。私のことは、私が全部わかっていないと。それは私の防衛の姿でもあります。
あれから8年。地元で開催されるプロセスワークには、その後も可能な限り参加してきました。キャラクトロジー心理学の各種講座も受けて、日々の現実で起きる感情的反応の裏には、幼少期のトラウマが作用していることを繰り返し学んで今に至ります。
私にとっては、「なるほど、そういうことだったのか」と、人生のからくりを知ることは、楽しみでもあり、自分がこれまで漠然と思っていたイメージが何を指ししていたのか、答え合わせをして腑に落ちるような、喜びもありました。
今も昔も、私は「知りたかったし、わかって安心したい」のです。
初めてのプロセスワークは「誕生の一瞬、子宮の中の安心から、未体験な世界へ生まれ出る時の恐怖」を持っていた私を追体験するものでした。子宮の中で外の気配を感じつつ意気揚々とイメージすることと、いざ生まれる段になると押し寄せる、想像を超えた現実の体験(体感)。混乱の中、押し出されていく恐怖。その時生じた傷については、後々セラピスト仲間たちのサポートを得て、SASやCCTセッションで何度も取り上げ、解いて行きました。
子宮の中で魂が思い描く「ああもしよう、こうもしたい」は、肉体を持たない意識の見る、夢のようなものです。子宮から押し出されて感じる重力、外の世界にあるエネルギーを無防備な身体で感じたとき、意識が夢見たことと「魂がからだを持って体験する」ことは大違い。大きな声で産声を上げた私。力の限り泣いたとしても、立ち会う皆は喜びこそすれ、「赤ん坊が、混乱に恐怖して泣いている」とは、だれ一人思わなかったでしょう。
でもキャラクトロジー心理学のセッションは、その繊細な場所で共感をもって立ち合い、「そこで私のトラウマが作られた」と受け止めるまでを見届けてくれるものでした。長年、自分の記憶にも残さず切り離し、放置されたままだった痛みが、寄り添いの中で認められたことで、より「そのもの」に近い形で、言語化できるようになりました。「言葉に変えずに、ただ感じて」と言われた初めてのプロセスワークから、4,5年を経てのことかと思います。
ところが、トラウマの場所を特定すると、私の思考は「わかったぞ!」とばかりに、また張り切り出しました。「この世界に生まれ出ることを後悔するくらいの恐怖だった」「私はこの世界の粗い波動を痛いと感じる繊細さを持ち、それを守るために硬い鎧のようなディフェンスを育てたのだ」と、反応を起こした私の側に立ち、その反応を起こしたのも無理もない、と慰めます。「もうあの恐怖を感じたくないよね」と囁き、「今度こそ安全な既知な場所にとどまる」ことを勧めてきます。私の自我は、こうして「わかったこと・想定の範囲内」に自分をとどめることが安全だと信じて、私を守ることを辞めません。
せっかく、これまで触れたことのない「キャラクトロジー心理学」に出会って、世界が一新するかの驚きを経験して、「きっとああしよう、こうも成れるかも」と想像したのですが、私の現実は期待したほどには変わりませんでした。なぜだ?
この世界のからくりが分かったことに満足し、「未知に踏み出すのをためらう」反応は越えられない。また「いつもの安全な殻の中」にいたとは、本人は気づいていませんでした。生まれ出る時に感じた、混乱をこえるために、理解は必要でした。でも、それを知る為に生まれてきたわけではありません。「生まれた先で経験すること」が目的なのに、そこに居続けて、どうなる?そもそも、何を経験したいのか?
キャラクトロジー仲間の多くが、学んで得たものをちからに「新しい体験」に踏み出し、活躍する姿を見るにつけ、自分の目的は何だったのか、分からなくなりました
当初は、両親との間にあった誤認が解ければ、きっと自分も変われるんだろう。人と関わるたびに起きる反応は、幼少期の傷がもとにあるのだから、記憶に残るあれこれをつまびらかにしながら、「自分の誤認」と「そこにあった真実」を受け入れたら、大丈夫なはず。私は最速で自分を癒して、次に進みたい。何なら皆を牽引するくらいの使命感を持って。そのために、これを学んできたはずなのだから、と顔が上向きます。
ところが、その思いとは裏腹に、「今じゃないと思う。私はまだ何もわかってないし、癒されて変わった体験がない」とジャッジし引き留める声に負けてしまう。いくら理屈が分かったところで、自信もないし意欲もない、結局自分の問題だ、と背中が丸まるばかり。その窮屈さにも飽きると、また何か学べば自信が持てるかもしれないと動いてみる。この繰り返し、まるでいもむし。
2022年のある日。この「コミュニティの中で、張り切って何かしようとして、自分じゃダメな気がする、とあきらめるパターン」が、私の人生に、イヤというほど繰り返されていることに気が付きました。これはもしかすると「あのときの、きょうだいプロセスに似ている?」
あの時、というのは、最初の心理プロセスから2年後に取組んだワークのことです。
もともと、札幌のキャラクトロジー心理学やプロセスワークは、最初3人のメンバーを中心に始まりました。私は数回遅れて参加しました。そのことが「姉3人と私」の構図に似ている、というのが、無意識にありました。ワークにも慣れてきた2年後のその日、初めてワークに参加した男性もいました。彼は偶然、兄と同じ職業でもあり、あまり深く考えずに「きょうだいプロセスをやってみたい」と思いつきました。姉の役を居合わせた方たちにお願いして、私一人「ハイハイの赤ん坊」の設定で始まりました。
私は、仲良くなりたいと思ってハイハイして近づくのですが、仲良くなるために、私は下手(したて)にならなきゃ、と動きました。なにしろ幼少期の私は「なまいき」でしたので、それではだめだ嫌われる、と思ってのことです。一方姉役の参加者さんたちは、なぜかマウントをとるような「強気のお姉ちゃん」を演ずるのです。その一瞬、参加者それぞれのきょうだいプロセスが動いて、反応が起きたものかもしれません。ファシリテーターが瞬時に気付いて、そのワークを止めて、別の形に変えました。皆がロウアーな反応を見せているので、そのまま続けてしまっては、ますます、私の傷を深めることになる、と言われた気がします。そんなこともあったなあ、という程度に記憶して、さほど気に留めていなかった、あの時のワークです。
あの「中断したプロセス」のことは、本当はどう進んだらハイヤーな気づきに至れたのか、私には全くわかりません。でも、それを思い出したと同時に、初回のプロセスワークとのつながりがあったこと、はっと気がつきました。
私は「生まれ出る時の混乱」のことだけを印象に残していたのですが、その時のプロセスワークの大事なことは「生まれ出た先で、たくさんの参加者に囲まれ、歓迎され、優しい愛を向けられる」経験を、呼吸と共に入れなおす、というものでした。
私が生まれ出た先に待っていたもの、それこそは「きょうだいのエネルギー」でした。3人の姉と兄、それぞれに私の誕生を待っていてくれて、もちろん喜びをもって迎えてくれました。でも、純粋な愛だけじゃなく、様々な反応もおきたであろうことも理解できます。
そんな雑多に飛び交うエネルギーが、赤ん坊の私に向かってきたのですね。
プロセスワークの時の私、実は「イヤだ、触らないで!」と強く拒否したいような気持も体験していました。ワークとしては、「皆の愛を呼吸と共に吸い込み、恐怖を溶かして愛で満たし、安心に変える」という目的があったと思います。自分の中に「拒否」の反応があることもわかったうえで、これを受け取ることにしなくては、円滑に終われない。その逡巡も、ファシリテーターには伝わっていたことでしょう。これ以上無駄に時間をとってはいけないような気持ちも持ちながら、受け取ることへとシフトしていきました。
すると、「受け取るってこんな感じ」が体験できたのです。自我の混乱は、そこにもあったのだ、と今さらのように思い出しました。
ワークに参加していたのは、大半が初対面の方です。その背景に何があるとも知りません。私のワークに、何を感じどう反応しているかもわかりません。涙と鼻水、恐怖と安堵でぐちゃぐちゃ、咆哮のように泣き叫ぶ私に、そこにいる人たちが、どんな好奇の目が向けられているかわかったものじゃない。その感じも「誕生時の再現」のよう。
あの時、必死に言語化しようとしていたのは、無防備にさらけ出された「わたし」に向けられる、様々な反応や視線の矢を、振り払うための強固な盾として、「これはこういうこと」「わかっています」と守りたい必死さだったろうなあ、と思い返すのです。
その2年後の「きょうだいプロセス」は、何度もプロセスワークを共にしてきたメンバーがいて、それぞれに自分と向き合う途上のものです。「札幌ヒーラークラス」が開かれるより前のことでした。私たちはまだ、自分のロウアーがなにとも自覚なく、逆に、起きた反応を正直に表せる程度には、マスクが外れていたのかもしれません。
この夏、「札幌のHITメンバーと過ごしてきた時間は、私にとって長い長いきょうだいプロセスだった」と思えた時。それと重なるように、父の13回忌、母の33回忌がありました。きょうだいが集まって、いつもと変わらず、わいわいとおしゃべりをしました。
小さなときは、泣いても笑われ、真剣に抗議してもいなされたり、からかわれたり。それもきょうだいにして見れば「かわいがる」だと思う。愛されたいし、大きなきょうだいの中に混ざりたい。背伸びするように言葉を繰って、感心されたり生意気と言われたり、なんとも粗いエネルギーの中にいたと思います。私にとってはそれが、両親とは違う第三者との付き合い方の原型になったけれど、一方で、私には両親もきょうだいも、「他になく尊敬できる、特別素晴らしい人たち」で、「えへん、わたしはこのうちのメンバーだ」という自負を持っていました。誰しも「自分の家こそ一番だ!」と思うからでしょうか。
ところが、ここ数年のこと、魔法が解けたように「私を含め、みんな普通のひとだ」という気持ちが持てるようになってきました。別に絶対的な存在でもなく、案外ロウアーだったり、偏りがあったり、凸も凹もある個の集まりだったと知れて、「お姉ちゃんたちと同じ考えでなきゃ、正解じゃない」と自分を縛る気持ちが、やっと消えていました。
私たちは「その人生にテーマをもって生まれ出る」と言われますが、キャラクトロジー・ベーシックでは、そのテーマにそった環境を選び、その協力者となる魂の契約のもと、互いを家族として地球学校に降り立つことを学びました。
私はこの両親このきょうだいを選び、その協力を得て癒すテーマをもってここに来たわけですが、「だからこの人たちが私の特別」と感じるのも無理もないけれど、そのつながりの外に、とっくに踏み出していたのでした。
家族という関係性に守られながら身に着けたものを携えて、その外のコミュニテイに出会っていくとき、「両親や、家族に感じていたものを、転移投影しながら、近づき出会っては、反応を起こす」のですが、私は長年「家族で得た原型をもとに、人を眺めて、型にはめ直して、想定内に納める」ことを繰り返していたようです。
「下手に出なきゃ愛されない(嫌われる)」という思い込みや、周囲が私にマウントしてくるかに感じることも、私の設定した「鋳型」ゆえで、それに沿う形で物事は起きているし、起こしているのは誰あろう私だ、と徐々に腑に落ちて行きました。
家族は、私のことを「小さいからかわいがった、生意気だから押しやった」「何かが優れているから愛された、何かが欠落してるから嫌われた」のでもなく、その時々その人の事情で反応を起こしながら、「でも、関わりの中にいることは、絶対の約束」。その「関わりの中にい続ける」約束が、私に多くのネガティブな体験もさせてくれたし、そこからポジティブにハイヤーへと転じていく喜びも、ネガの深みの分、いっそう高い喜びに代わりもした。「その関わりを、体験する場所」がそれだったのか、と分かったような。
でも、そのことは「リアル家族」との反応の中で気づけたわけではありません。
私は、繰り返し札幌のキャラクトロジー仲間たちとプロセスワークを体験してきました。そこはここで書いてきたように、それと意図せぬ形で「きょうだいプロセス」を繰り返し味わっていた場所でした。
日常においては、時に互いに転移をのせ、自分を投影して反応しあうけれど、「プロセスの場に集まるときは」、一人ひとりが、「自分を癒す」という意図を持ち、時にロウアーなお互いを開示し、周囲から見れば明らかなことが「自分だけが気付けない」混乱におちても、だれ一人笑うことなく、安全な場所としてホールドしあいながら、気づきを待つ。頭で正解を探すのではなく、体験を重ねながら内側でおきる「わかる、とける」を見守りあう。顔を合わすのは年に数回でも、互いのワークは重なり合い、それぞれの場所で体験に変えてみて、そしてまた持ち寄りあう。学び合う仲間として、意思をもって集う関係は、きょうだいのそれとも違う、強いつながりです。
それ自体が、長い長いスパンのプロセスワークだったと思うのです。取り繕うことでもなく、もっともらしい何かをみにつけるのでもなく、「自分のエネルギーのままにいても安全で、互いのエネルギーに触れあっても安全」ということを、私は8年かけて「本当にそうなんだ」とわかることができました。
その変化は、私の得意な「思考」には予測もできなかった体験です。しかも、こうですねああですね、と分かった風に言葉に変えるタイミングもないまま進行していて、気づいたら「かわっていた」し「わかっていた」。純粋に体験がもたらした気づきでした。
札幌のキャラクトロジー仲間が集まると、「私たち、どうやらロウアーが強いらしい」と自虐的に笑うことがあります。私はマスクが強いので「いいえ、私は問題ありません。皆さんとは違いましてよ」と気取りがち。でも、まるでONとOFFがあるように、スイッチが入る仲間たちだからこそ、メリハリつけて、無意識が意識化されて気づかせてくれたことです。
私はこの文章の前段で、ヒーラーやセラピストとして他のメンバーのようには活躍できない自分のことを、「今じゃないと思う。私はまだ何もわかってない」と丸まるばかりのいもむしだった、と書きました。
今こうして自分の体験して来たことを振り返ると、私は「対コミュニティ」の傷を癒す、という目的でこの人生に飛び込んだのだ、と思えています。両親きょうだいとの関係、長じて結婚してつくった自分の家族との関係。魂の約束で繋がるコミュニティで、イヤになるほど「自分を閉じなきゃ、安全じゃない」という分離の経験を重ねていました。それではどうにも立ち行かなくなって、だからこそ「本当は仲良くしたい」を切望し、キャラクトロジー心理学に出会いました。
閉じて分離することがわが身を守ると誤認した年数は、ずいぶん長いものでしたが、「このままではいたくない」と気づいて、模索してきたこの長いプロセスは、いもむしが、さなぎの時期を過ぎて、ようやく「外に出て、羽を広げる」プロセスにも思います。
さて何を?
私は今も昔も、経験しわかったことを「外に表したい」人でもあります。絵に描き文に書き。それはかつてのような「もっともらしい何か」ではなくて、私を通して、私の中から表されるものであれ、と思います。
その時きっと、まわりの人もまた、その人を通してその人の中からあらわれるものを共にする、ただ互いの経験からあらわされるものを、うつくしいね、たのしいね、とゆらゆら揺れて喜び合うような中で、羽を広げるくつろぎを、創造したいと思っています。
これが私の8年をかけて癒された体験で、文字通りの「プロセスワーク」の記録です。
最後に、この体験へと導き、ホールドし続けてくださった、心理プロセスのファシリテーター・山本美穂子さんと、ともに安全な関係を築く努力を重ねて続けくれた札幌HITの仲間たちに、深い感謝を申し上げます。
このエピソードの中で、あなたは何によって癒されたと思いますか? : 心理プロセスワークと、チーム鮭の仲間たち
【作品応募者について】
どんな職種・お仕事をされていますか? : セラピスト