一般社団法人 HITキャラクトロジー®心理学協会

グランドマスター紹介 instructor

自由と未来と可能性にチャレンジし続けるHeartInTouchビレッジの揺るがぬリーダー
堀内ふみ(松山)

堀内ふみ
ベーシックグランドマスター
子育てグランドマスター

1964年、愛媛県生まれ。小さな田舎町の密接感と閉塞感の中で生まれ育つ。
薬剤師として病院で働く中で夫と出会い、結婚。二人の女の子に恵まれるが、
長女7歳、次女3歳のとき長女を事故で亡くすーーー。

あまり好きではない生まれ育った町

生まれ育った町があまり好きではありませんでした。人間関係が子どものときから中学を卒業するまでほとんど変わらないほどの小さな町で、どこを歩いていても何をしていても誰かに見られているような。ここで暮らしたくないとずっと思っていました。

家に帰れば父は酒ばかり飲んで仕事をせず、母と喧嘩ばかり。そんな家族の中にいるのも嫌で、大学進学を機に家を出たとき初めて自由になった気がしたのをよく覚えています。

そもそも大学に進学したのもやりたいことがあったからではなく、家を出たかったのと、高校時代に好きだった先生が大学時代に楽しかった話をよくしてくれていたからです。

自由でありながら、枠から飛び出すことはしない

私は薬学部に入ったのですが、それもまた、母から「女は資格を取りなさい」と言われ、理系で資格が取れて大学に行ける学部を調べたら薬学部だった、というのが理由です。

でも、薬学の勉強は楽しかったですね。勉強は楽しかったけれど、国家資格を取っていざ就職して仕事にしてみたら、「あれ、薬剤師ってつまんない?」と思いました。小さな外科病院だったからかもしれませんが、処方箋があってそれに従ってお薬を準備するだけなので、クリエイティブな感じがまったくなかったのです。

決められたことを決められた通りにこなすだけなので、正直つまらなくて。たまに事務のお手伝いをすることがあったのですが、「事務の仕事って楽しい」と思ったりもしていました。

大学時代も就職してからも、よく遊びましたね。友達と自由にやりたい放題遊んで、楽しかった。でも、今思うと、自由ではありながら、枠から飛び出すことはありませんでした。

とんでもなく自由なことはなく、ほぼ常識の範囲内にしかいなかった。周りに合わせ、集団の中で外れないようにして、突拍子もないことはしない。自由なように見えて、いつも周りの様子をうかがいながら行動し、世間の目を気にしていたように思います。だから、どこかで息苦しい思いも抱えていました。

けれどもその頃は「それが自分」だし、「そういうもの」だと思い、その息苦しさに疑問を持つこともありませんでした。

結婚、同居

夫とは勤めていた職場で出会い、付き合いだしてからしばらくして彼は越冬隊員として南極に赴任することになって……私、南極からプロポーズされたんですよ!

帰国して半年後に結婚し、夫の実家での同居生活が始まりました。夫の母の出した結婚の条件が「同居」だったのです。私自身祖父母がいる家で育ったので、子どもにとってはおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らすのは良いことだと思い特に反論することもなく、私はその条件を受け入れました。

同居開始から半年後、今度は夫が松山市外に転勤になり、それから2年ほどは夫との二人暮らし、長女が生まれてからは親子三人での生活を送ってから、また夫の実家のある松山に戻りました。

長女が4歳のとき次女も生まれたのですが、義母とは子育て観が違っていたり、いわゆる嫁姑間の行き違いもたくさんありました。自分の子ども時代である「孫の立場からの同居」と「嫁の立場からの同居」の違いをひしひしと感じる日々でした。

長女との別れと、自分自身の変化

38歳のとき、長女を事故で喪いました。7歳でした。
長女を喪って、私の人生は変わりました。ここを分岐点として、これより以前とこれより後では自分がまったく別人であるかのように感じます。人生、価値観、すべてがガラッと変わったのです。

それまでの私は、前にも少し触れましたが世間体を常に気にして生きていましたし、嫁として、母として、PTAとして、地域の一員として、多少不満があろうと周りに合わせて生きることが大事でした。でも、そんなのどうでもよかったって気づいたんです。

私が必死で守ろうとしていたもの、やらなければいけないと信じていたことは実は大したことではなかった。良くも悪くも、何がどうなってもどうでもいいやと思えるようになりました。だから、すごく変な言い方ですが、暮らすこと、生活することは楽になりました。娘の死を機に、私をがんじがらめにしていた何かが外れたように思います。

だからといって、悲しみから逃れられたわけではもちろんありません。
家から出ることができなくなり、ほぼ引きこもって生活するようになりました。関わるのは家族のみ。けれども、家族一人一人それぞれが自分の悲しみを持つことで精一杯で、他の人のことは考えられない状態でした。両親とも、夫とも、悲しみを分かち合うことはできず、私は一人ぼっちでした。

そんな中、唯一の救いだったのがインターネットです。

私以外にも子どもを亡くした人は世の中にいるはずで、その人たちが、この息をするのもしんどい苦しさをどう乗り越えたのかが知りたくて、必死でネットサーフィンして情報を探し求めました。同じ悲しみを抱えた人たちが開設したブログや掲示板を見つけ、最初は見ているだけだったのがそのうちそこに加わりたくなって、掲示板に書き込むことを始めて。

大きく変わったのは、オフ会で子どもを亡くすという同じ体験をした人たちとリアルに会ってからです。何も言わなくても分かり合える人たちがいて、「わかってもらえる」だけでどんなに救われるかを身をもって経験しました。彼女たちとの出会いはあの頃の私にとって本当に救いでした。

長女を亡くしたとき、未来も過去もなくなった、と思いました。

もう生きていく希望も何もないけれど、次女のために生きなければとその一心で私は生きていたように思います。本当に自分のやりたいことなんて私にはないけれど、誰かのためになら生きられる。では、子どもを亡くした親のためにも私は生きよう、と決めました。

そして、インターネットの世界で出会った人たちと一緒にカウンセリングを学び始めたのです。ある方と出会い、その方に師事するようになり、松山にもお呼びしての連続講座を主催するなどかなり熱意を燃やして学びました。

が、熱意を燃やし過ぎたのか(笑)連続講座が終了した途端、燃え尽き症候群のように「もう学ぶのはいいや」「私はもう生きていける」と学ぶことから遠ざかることを選んだのです。仲間たちが山本美穂子さんと出会い、キャラクトロジーを学び始めたのはちょうどこの頃のことでしたが、「すごく面白いから!」とどんなに誘われても、私は断り続けました。

もっと知りたい!と思ったキャラクトロジーとの出会い

それなのになぜ学ぶようになり、マスター講師となり、今ではマスターを養成できる資格まで取ったのかというと、美穂子先生が松山でワークショップをすることになり、その会場がうちから5分という近さだったからです(笑)。

みんながそんなに興味をもつ学びを提供している方のワークショップがこんな近くで開催されるならば、一度自分の目で確かめてみよう、と見に行ったのが始まりです。

そのとき私は、今では信じられませんが「何もする気はありません。見に来ただけです」と美穂子先生に言い放って参加したのですが(笑)、プロセスワークショップが進むにつれ、「あ、すごいな」「この人は本物だ」と、直感的に思いました。

その後私はキャラクトロジーを本格的に学び始めるのですが、学びながらも、「これまでに学んできたものとはまったく違うところにこんな面白くて凄い学びがあった!」と、もっと知りたいという好奇心と興味が尽きませんでした。

そして、より私を学びと癒しの方向へと向かわせるきっかけとなったのは、「親が自分の傷(トラウマ)を癒すと、親が子どもに乗せてしまった子どものその同じ傷も一緒に癒される」という美穂子先生の言葉です。

怒りに任せてつい子どもを言葉で“攻撃”してしまう母親としての自分を、私はずっと責めていました。本当は怒りたくないのに、どうしても自分を止められない。この部分は何をしても変えられないと半ば諦めかけていたのですが、学びを深めていく中で、そんな言動にも理由があるということがわかりました。

一進一退しながらも、美穂子先生の言葉を胸に、私は、自分のためだけでなく子どものためにも、自分のこころの内側と向き合い続けました。どうにもならないと思ってしまっていることや自分がおかしいのではないかと思ってしまっていることにもすべて理由があり、その対処法・解決法があると知ることは、ずっと自分を責め続けてきた私にとって大きな救いだったのです。

自分が癒されるたびに、娘も変わってゆく

そうして学びを進め癒しを深める中で、「自分が癒されるたびに、娘も変わってゆく」ことを実感しましたし、それを実感すればするほど嬉しくなり、次女との関わりかたがどんどん変わっていきました。

私が学び始めた頃には美穂子さんとスタッフさんが1人いるくらいだったのに、やがて協会が立ち上がり、学ぶ一方だったキャラクトロジーを教えることのできるマスターという資格ができました。

マスター募集がかかったとき、実は最初はマスターになることすら迷ったのです。なぜなら、私はたまにパートに出ているだけの専業主婦だったから。でも、説明会に出てマスターの資格を取ろうという気持ちが固まりました。説明会で流された動画がそのきっかけでした。引きこもりや摂食障害で苦しんでいた若い女の子たちが、キャラクトロジーを学んで変わり、輝くような笑顔をカメラに向けていたからです。

そして、美穂子先生が「リリースの最初の年はベーシック、来年は子育てに特化したキャラクトロジーをリリースします」とおっしゃったとき、「あ、私は子育てを教える人になりたい」と自然に思いました。しんどい思いをしてきた子どもたちがこんなにもありのままの自分でいられるようになるのなら、それを提供する人になりたい、と強く思ったのです。
マスターになって、私の人生はまた、変わりました。
マスターになっていなければ、私は今、自分のサロンを持ったりはしていなかったでしょう。

サロンを持つことで、より自由に仕事ができるようになりました。

私も来てくださる方も、安心安全を感じることができますし、やりたいときにやりたいことができる自由さはやはりプライベートサロンならではです。セッションにしても講座にしても、お客さまのニーズに合わせて柔軟な対応ができますし、急な依頼にも応えることができるようになりました。そして何より、サロンを持ったことで、それまでは「講座、やりたいけどやれない」で足踏みしていたものがどんどん講座を企画し開講していくことができるようになったことは大きいです。

娘を亡くしたとき未来もなくなったと思ったということは前にも触れましたが、キャラクトロジーと出会う前の私には、本当に「未来」がありませんでした。カウンセリングを学んでいたとき、セッションの中で「未来に目を向ける」とか「未来に展望を持つ」と言われても、私は自分の時間軸の先がブチっと切れているようにしか感じられなかったのです。他の人は未来に目を向けると、誰もがいろいろな夢を語り始めるのですが、私にはそれがない。

何をどうしても道の先がブチっと切れていたのです。なんで私はこうなんだろう? とセッションのたびに思いました。そしてその原因が、キャラクトロジーを学んでいる中で見つかったのです。

そう、私は子どもを喪ったとき、「もう私には未来はない」と決めてしまったのです。
「決める」ことの力が本当に強大であることを、私はこのとき実感しました。
そのことを思い出し、認めた、癒したことで、本当に道が見えるようになりました。そのおかげで今の私があります。

だから、どんな人でも、自分はどこかおかしいのではないかと思っていても、その答えと理解を必ずもたらしてくれるのがキャラクトロジーであると私は思っています。そしてそれは、その部分の傷を癒していくことで確実に変化していくのです。

娘を亡くしてから始まった人生

私の人生は、娘を亡くしてから始まりました。
娘のことがなかったらもしかしたら離婚していたかもしれないし、私とはタイプがまったく違う次女とは分かり合えずに距離のあるままだったかもしれない。
もちろん良かったのかといえば良かったはずはなく、たとえ家庭がボロボロになったとしても、生きていて欲しかった。

それでもやはり、世間体を軸とした私の人生が180度変化し自分の人生を生きる道筋に変わったのは娘のおかげです。もしかしたら、娘の死に意味を持たせるために私は頑張っているのか? と思う時もありますが、それならそれでいいのです。

亡くなった人は、残された人に贈り物を置いていくといいます。だとすると、やっぱり私の変化は娘からの贈り物だと思うのです。だから私は、変われば変わるほどたくさんの贈り物を娘からもらえていることになります。だから私はもっともっと自分の可能性を開き、変化していきたいし、自分の可能性をどこまでも信じ見つけていきたい。

すべての人に可能性がある

子どもの頃の自由じゃなかった自分は、自由のない生活のその先にこんな人生があることを予想もしていませんでした。だから、子どもの頃の私に、そして今の子どもたちに伝えたい。未来はわからないよ、可能性って無限なんだよ、と。

子どもたちだけではありません。すべての人に可能性があります。今自分のサロンを持ち、やりたいことをやっているように見える私も、今まで読んでくださった方はおわかりのように、週に何度かのパートでなけなしのお小遣いを稼ぐだけの専業主婦でした。私ができたんだから必ず誰もができます。目の前にある可能性を選んでいくのは自分しかいなくて、自分を癒していくことでそれがどんどん容易になっていきます。

本当に、気づいたら可能性を掴み取りその方向に進んでいくことが容易になっているのです。私ももっともっと自分の可能性に開いていきます。あなたも一緒に、ご自分の可能性に開いていきませんか?

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公開日:
最終更新日:2019/06/17