キャラクトロジーで人生変わった!

山本尚美(高松)ー地に足を着け、この世に生きている喜びを感じながら今は生きています

山本尚美(高松)
ベーシックグランドマスター
恋愛グランドマスター

1964年生まれ。
父親はアルコール依存症、母親は仕事中毒で、日中は近所の家で養われ夜のみ自宅に帰るという特殊な環境下で幼少期を過ごす。
40歳のとき、母が亡くなったのをきっかけに子ども時代の体験からくる複雑性PTSDを発症。昼夜を問わずフラッシュバックと侵入的回想に悩まされ、人生が立ち行かなくなるーーー。

一人遊びが好きだった幼少期

一人遊びが好きなおとなしい子でした。
日中は自宅ではなく、近所の家で有償で育てられていて。親戚ではなくまったくの他人です。でも、私の意識の中ではその人たちが私の家族で、父や母、4つ上の兄は私にとって「よくわからない」人たちでした。

3歳で保育園に行きはじめるのですが、なぜ保育園に行かなければならないのかが私にはさっぱりわからず、一切言葉を喋らなくなりました。半年間一言も口をきかなかったので精神科に連れて行かれ、緘黙症と診断されたそうです。私自身は精神科に連れて行かれたことは覚えていないのですが、喋らなかったことは覚えています。なぜ喋らなかったかというと、わけがわからなかったからです。

ここがどこで、何をするところで、何でこんなところにいるのかがわからなくて、怖かったんです。保育園の生活に慣れた頃、喋ることをまた始めましたが、保育園は最後まで大嫌いでした。うるさいし、したくもないときに食べたり寝たり集まったりしなければいけないし。お昼寝の時間が本当に苦痛で、眠れたためしがありません。眠れなくても寝たふりをしなければいけないし、身じろぎしようものなら先生から「寝なさい」と怒られて。好きなお友達と遊ぶことができたからなんとか通いましたが、早く小学校に行きたい! と思っていました。保育園は午後3時とか4時までいないといけないけれど、小学校は半日で帰れるから。

小学校に上がっても、2年生くらいまですごくおとなしい子で、同じようにおとなしい子たちと一緒にいました。この頃は、小学校がどういうところで何をすべきで何が必要なのかがわかっていなかったけれど、拘束時間が短いので保育園に比べたらマシかな、と思っていましたね。3年生のときクラスに社交的な子が転校してきて、その子と仲良くなったおかげで社会に慣れていったというか、人間になっていったように思います。

たとえば「友だちの家で遊ぶってこういうことなんだ」とか「ごっこ遊びってこういうことなんだ」とか「空想するってこういうことなんだ」とかいうことを、その子と一緒にいることで体験的に理解し、普通の子になっていけました。

小学生から大学生までずっと、学級委員とか部長とか、そういう役はよくやっていましたね。人気があったわけではなく、成績が良かったんです。クラスの中でもちょっと変わった子という扱いだったので、そういう意味では目立っていたのかもしれません。

大勢で一緒に遊んだり騒いだりすることはまずないですし、それが楽しいと思ったこともなかったです。じゃあ何をして遊んでいたかというと、少数の仲のいい子たちと本を読んだり映画を見たり、お話を作ったり、今でいうオタクっぽい遊びをしていました。

とにかく本が好き。学校の図書館と市の図書館の本を片っぱしから読みまくりました。小中高と長期の休みや週末には一日のほとんどを図書館で過ごしていたので、私に用事がある人は図書館の館長宛に連絡をしてくるほど。仕事をせずに酔って暴れる父のいる家と違って、本の世界は自由で可能性がある。だから私は本が好きでした。

家を出たくて県外の大学へ進学

高校卒業後は県外の大学へ進学しました。小学校のときから、大学は絶対に県外に行くと決めていたんです。5年生くらいから日中も実家で過ごさなければいけなくなり、父がアルコール依存症だったのでいろいろと大変で、とにかく合法的に家を出たかった! 入ったのは総合科学部という新設された学部で、当時では珍しい、1年時からコンピュータが必修科目としてある学部でした。

1982年頃、まだパソコンなんてなかった時代です。その大学時代に、100人ほどの会員のいる学外の創作サークルの会長を引き継ぐことになって……今と違ってオリジナルの創作が元気な時代だったので、サークルで本を作ってコミケで売るということをやっていました。創作同人です。全国のコミケを飛び回って、楽しかったですね。

大学を出た後、高松市でシステム開発をする会社に就職しました。なぜ高松なのかというと、同じ大学の彼が実家の高松で一足先に就職していたからです。結婚するつもりで私も高松に移り、26歳で結婚。結婚した翌週から今度は本屋さんで働きはじめました。

やりがいのある、本屋さんで働ける幸せ

それから26年間、この本屋さんはずっと私の職場でした。先ほどもお話しましたが、子どもの頃から本が好きだったので、本屋さんで働けるのは私にとって本当に幸せなことでした。「仕事」だと思ったことは一度もないです。遊びだと思っていました。

特に大変だったけれど楽しかったのは、図書館の新規オープンを担当していたときです。何千万円という予算の中で書籍の選定・発注からラベルやデータを作成し、ビニールコーティングして納品するまでを何件か同時進行しながらオープンにこぎつけるのは、すごくやりがいがありました。私が新規オープンを担当した図書館は香川、徳島、高知などにあるのですが、今でも通りかかるとその頃のことを懐かしく思い出します。

PTSDの発作の発症

40歳のとき、母が急死。それをきっかけに子ども時代の体験からくる複雑性PTSDの発作が頻繁に起こるようになり、どうにもこうにも人生が立ち行かなくなってしまいました。山のように積もった小さなトラウマ体験のフラッシュバックと侵入的回想(「あのときああだったこうだった」「あのことがどうのこうの」など考えたくないのに止められない状態)がとにかく止まらなくて、フラッシュバックに襲われると、本当にその瞬間に戻ってしまう。

なぜ母が亡くなったタイミングで発症したのかというと、実は私は、母を母だと思えたことがないんです。私を育ててくれたのは育ての親だったおじさんやおばさんたち。父親はアルコール依存症で、母に関しては「人の心がわからない人」だと思っていました。そして、母の死に際しとてもほっとすると同時に「私はこれまで母親を持ったこともないしこれからも持てないんだ」と感じて……そのときから、0歳から18歳までの記憶が溢れてどうにもならなくなってしまいました。

それから2年ほどの間はカウンセリングを受け、セラピーを受け、精神科を訪ね、自分の人生を立て直すことに専念しました。その結果、2年後にはとても元気になり、生きることがずいぶん楽になって。私もこういうサポートができるようになりたい! と思い、そのための勉強を始めたんです。

まずはセッションを受けながら、ある方の下でハコミセラピー系の手法を学びました。また別の方の下でさらに学んで、理解したことを自分の体験とどうミックスして提供していくかを考えていたときにその方からアシスタントのお声がかかり、ワークショップでアシスタントを務めたり、またセラピストとしても活動するようになっていって。セラピストのためのセラピストになりたい、という自分のビジョンを持つようになったのもこの頃のことです。
そんなとき、心のことも共に学んできた、30年来の親友が急死しました。

美穂子先生との出会い

そのとき、何か変だぞ、と思ったんです。父は私が29歳のとき、急死しました。複雑性PTSD発症のきっかけとなった母の死もまた、急死です。さらに親友も入浴中に急死。これは変だ。私が今まで気づいていない何かがあるに違いない、と思いました。
そして親友の死から半年後、初めて大阪で美穂子先生の講座に参加するのですが、それは亡くなった親友が美穂子先生の講座に通っていて、「美穂子さんの講座はおもしろい!」とつねづね言っていたからです。

美穂子先生に初めて会ったとき、急死した親友の話をしました。
すると美穂子先生は、「ああ、悲しいわ」と涙ぐまれて。そこからしんみりとした話が続くのかと思ったら、1分も経たないうちにそのしんみりモードが通常モードに戻ったんです。

私は「親友が亡くなって辛い」という話がしたかったし、だいたい彼女の知人に彼女の死の話をするとその場の空気がしんみりし続けるのに、美穂子先生はそうならなかった。私はそこにとても驚きを感じ、自分の中に「?」がピン留めされました。「今、ここで、私の知らない何かが起きた!」と思いましたね。最近になってそれが本当の感情と感情的反応の違いだったんだと理解できましたが……。

その後の講座も、確かオーラの見方とか、チャクラの感じ方とか、エネルギーのこと、グラウンディングのことなどを話されたと思うのですが、「?」「!!!」続きで……。

この日、私は、美穂子先生の下に学びに行こう、と決めました。でも、今すぐに連続講座を受けても理解できないであろうことがわかっていたので、まずは自分が理解できる地盤を作ってからと、他の方のところで感じ方を学んだりして地盤を作ってから、当時美穂子先生が名古屋で開催していた18回の夜の連続講座に参加しました。まだ「キャラクトロジー」という言葉もできていない頃のことです。

月に2回、2時間半の講座のために高松から名古屋に通い、夜行バスで朝高松に戻ってそのまま仕事に行くという生活を9カ月続けました。その後、リレーションクラス、ヒーラークラスを東京で受講し、協会ができてからは当然の流れの中でマスター講師となり、さらにマスターを養成できるグランドマスターの資格もとりました。

私はとにかくキャラクトロジーを学びたかったし、もっと知りたかった。さらに、セラピストは絶対にキャラクトロジーを知っていた方がいいと個人的に思っているので、それを伝えられるようにもなりたかったのです。前にもお話しましたが、私の夢は「セラピストのためのセラピストになる」ことですから。

キャラクトロジーを学ぶ前は、セラピーを提供しても単に“癒し”で終わっていました。
早く癒されてほしいのでいつまでも継続してセッションを受けてほしくないのですが、でもそうすると仕事として成り立たない(笑)。そして私が頑張れば頑張るほどクライアントさんはすぐに良くなられるので、これはどうしたら仕事になっていくのだろうと悩んでいたのが正直なところです。でも、キャラクトロジーは単なる“過去の癒し”ではないんです。キャラクトロジーが取り扱っているのは、“今”。“今、ここ”から未来を作っていく学びなので、私の提供するセッションもずいぶん変わったと思います。キャラクトロジーの講座、ヒーリングやセラピーのセッションをするのは本当に楽しいです。

地球に生きることの楽しさ

美穂子先生と出会って変わったことがあります。
それは、人とハグできるようになったことです。私はそれまで、「人とハグするなんて気持ち悪い」と思っていました。夫とはできましたが、別にハグなんかしなくても良いのでは? という程度で、他人とはとてもできなかったんです。
でも、美穂子先生と出会い、キャラクトロジーを学んでエネルギーのやりとりが理解できるようになってからは、人と触れ合うことが心地いいと感じられるようになりました。 今では、その甘さや心地よさを感じることができます。夫とハグすると、ピンクのふわふわが行き交うのもわかります。

あのとき感じた「何か変だぞ」という嗅覚に従ってよかった。
この世界にしっかりグラウンディングして地球に生きることを楽しみながら、ビジョンを実現していこうと思います。

 

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