筑井由紀子(愛知)
ベーシックグランドマスター
理想の看護の実現を目指し孤軍奮闘し続けたナースが事業に失敗し“死ぬしかない”と思い詰め、生まれて初めて助けを求めた相手にただ寄り添ってもらう体験をすることができた時、何かが変わった−−−
目次
戦い続ける世界
理想の看護の実現のために戦い続ける日々
私がキャラクトロジー&美穂子先生と出会ったきっかけは、今でも美穂子先生が心理セラピストとして定期的にセッションを行なっている名古屋の希望クリニック院長・堀田先生のご紹介です。
当時私は訪問看護の管理者として、訪問看護の世界に骨を埋める勢いで働いていました。自分の理想とする看護を実現できる場所を求めてたくさんの事業所を転々としていたのですがなかなか思うようにいかず、そのうちに思いがけず自分が管理者となる事業所を立ち上げる流れになったのです。あれよあれよと話が進み事業所が立ち上がったものの、従業員を抱え、今後どうしたらいいのか、どういう風に動いていったらいいのか、方向性が全く見えなくて……なんとか事業所を回してはいましたが、利用者さんからのクレームも従業員からの批判や文句も全部自分一人で受け止めるという酷い自己犠牲の中、暗澹たる毎日を送っていました。
キャラクトロジー、美穂子先生との出会い
精神的にも体力的にもギリギリのところで踏ん張っていた私に、堀田先生が、「今度こういう講座をクリニックで開講するから受けてみれば」とご紹介くださったのが、美穂子先生が堀田先生のクリニックで開講された現在のキャラクトロジーベーシック講座の前身である『こころと身体とオーラの体験型心理学講座』です。
堀田先生とは先生が希望クリニックを開業される前から利用者さんの床ずれのケアでお世話になっていたのですが、先生が勤務されていた病院を退職し統合医療のクリニックを開業されると聞いた時は、「統合医療???何それ???」とちんぷんかんぷんだったほど、その頃の私はスピリチュアルなことや心のことをまったく知らなかったし、実は興味もさほどありませんでした。でも、私はこの『こころと身体とオーラの体験型心理学講座』という謎の半年講座に通い始めることにしたのです。
響き渡るジャッジの声
ところが、「この人(美穂子先生)、日本語を喋ってはいるけど、何を言ってるのか全然わからない」というのが最初の半年間で(笑)。まったく自分の中に概念がない話を毎回毎回2時間に渡って聞くので、本当に、何を話しているのか全然わからないのです! しかもクラスの時には全員が輪になって話したり、中には泣き出す人もいたりして、バリバリの現実主義ナースの私には理解不能なことばかりでした。それでも、一回も休むことなく出席し半年間の講座が終了。
その後、同じ内容の講座を続けてもう1クール開講することになり私はそれにも参加し、合計1年間をかけて、なんとかこのまったくそれまでの私に馴染みのなかった概念を学びました。翌年からはその次のクラスとして、人と人との関係性を学ぶ『リレーションクラス』という新しい講座が始まり、それにもとりあえず行き始めたのですが、講義の内容がオーラの話とか超知覚の話とかだんだんあやしくなっていって(笑)。「怪しい…これは怪しいぞ」というジャッジの声を毎回毎回自分の中に響き渡らせつつも、今回もまた、途中でやめることなく講座に通いました。なぜずっと自分が通い続けているのか、自分でもよくわかりませんでしたね。
サイコパスの世界の総崩れ
「この事業が失敗したら、私は死ななければいけない」
私の管理する事業所は、立ち上げて2年目には早くも酷い状態になっていました。事業所を閉鎖しなければならないところにまで事態が追い込まれてしまったのです。この時私は、「この事業が失敗したら、私は死ななければいけない」と思っていました。管理者ではあるけれど雇われている身だし、辞めて専業主婦に戻れば済むことなのに、なぜか、「この事業を失敗した私は生きていてはいけない。死ななければ」という謎の心理状態に陥っていたのです。
ただ、寄り添ってもらうという体験
その時私は40歳を過ぎていましたが、それまでの人生で、私は、人に頼るということを本当にしたことがありませんでした。小さな頃から、どんなに困っても、母に「助けて」と言うことができない子どもだったのです。でもそんな私がこの時、夜中に泣きながら美穂子先生に電話をしました。時間にしたら5分くらいだったとは思いますが、美穂子先生は、何も言わず、泣きながら話す私と一緒に、ただそこにいてくださいました。これが私にとって、自分以外の誰かに助けを求めた初めての経験です。この時、何かが自分から流れ出ていった感覚を感じたのをよく覚えています。
サレンダー
それ以降、「私がなんとかしなければ」と、壊れゆくもの(この場合は事業所)を必死でどうにかしようとしていた自分とそこにある恐怖を認め、とにかくサレンダー(しがみつくことをやめ、手放す)することに意図を定めました。
目には見えないたくさんのものが自分から剥がれ落ちていくような不思議な感覚の中、事業所の閉鎖が決まり、閉鎖にあたっての会議が開かれることになりました。それまでは、会議というと戦いに臨む戦士さながらに準備し勝つ気まんまんで参加していた私が、生まれて初めてノープランで会議に出席したのです(笑)。しかも上層部のお偉いさんたちの集まる会議です。
奇跡が起こった!
その時の私にとっては、正直、事業所の閉鎖はもうどうでもいいことでした。でも、信頼して利用してくれていた利用者さんが明日からどうなるのか、それだけが気がかりだったのです。でも、私にはもう本当にどうすることもできなくて……。私はそれを認め、ノープランで、サレンダーして、ただ自分の体を感じながら会議の場に座っていました。すると奇跡が起きたのです。なんと、近隣の施設の管理者さんが会議に現れて、私を雇い入れてくれ、私の事業所の利用者さんもすぐにその事業所で訪問してもらえることになったのです!
その瞬間私は、世の中には、それまでの人生で私が築き上げ培い使ってきた“世界の見方”とはまったく違う見方があり、つまりまったく違う世界があるのだなあということを感覚的に理解することができました。キャラクトロジーでいう「サイコパス」の世界の総崩れが起こったのです。
世界が少しずつ変わり出す
思えば、心のことを学び始めて以降、“これまでにやったことのないこと”をやってみるチャンスが何度も私に巡ってきました。たとえば、それまで「助けて」と人に言うなんてとてもできなかったけれど、先ほどお話ししたように、私は、生まれて初めて人に頼り助けを求めるというチャレンジをすることができました。さらに、それまではただ自分の内側に溜め込んでいた怒りの感情を、体で感じてみるという方法を知りました。怒りを相手にぶつけるのではなく、ただ、自分の体を通して感じ、流れ去るまで感じてみるのです。これら自分にとって新しい選択をしてみたところ、驚いたことに、相手の言動が変わったり、あるいは置かれていた状況自体が変わったりと、現実が明らかに以前とは変わってきました。
理想の世界の実現のために
やっと自由になれる!
リレーションクラスを経て、次に私は新たに始まったヒーラークラスに通い始めました。訪問看護ステーションに所属して仕事をする一方で、美穂子先生からヒーリングの技術やヒーラーとしての在り方を学び、ひたすら自分の内面のワークを続ける日々。しかしまたもや、そんな日々を揺るがす事件が起こります——看護ステーションの管理者から、いきなり「明日から来なくていいよ」と言われたのです……! でも、興味深いことに、そう言われた瞬間に私の内側から出てきた声は、「やっと自由になれる!」でした。46歳の時のことです。
自分を活かして貢献できる世界が次々に広がってゆく
不当解雇された後、私は、看護師の派遣会社に登録し、派遣看護師として仕事をすることにしました。派遣看護師の仕事先って本当にいろいろで、多種多様な場所での仕事を経験しましたね。単発での夜勤看護師のほか、小中学校の修学旅行やキャンプへの同行、アイドルの握手会など……。また、繰り返しヒーラークラスに通って学びを深め、ハートインタッチ認定ヒーラーとしての認定も受けることができたので、徐々にヒーラーとしての仕事も入ってくるようになっていって。それに加えて今は、ヒーラーの中でもさらに数少ない認定メディカルヒーラーの認定もいただけたので、メディカルヒーリングの個人セッションのほか、私を美穂子先生&キャラクトロジーと引き合わせてくれた堀田先生の希望クリニック、また千葉のセントラル神経科クリニックでカウンセリングとヒーリングを提供しています。それ以外の時間には、看護師として子どもの病気の電話相談を受ける仕事も始めました。私にも経験がありますが、子どもって、特に病院がその日の診察を終えた時間から夜にかけて具合が悪くなったりすることが多いものです。そうすると、夜間病院に連れて行ったほうがいいのか、あるいはこのまま家で様子を見ていた方がいいのか、お母さんは悩みますよね。そんなお母さんの話を伺い、病院に連れていくべきタイミングや症状への対処法などを看護師としてアドバイスするお仕事です。お母さん、そして子どもの心の負担を少しでも減らすことができていたらいいなと思いながら、電話を受けています。
ちゃんとしなくても、こんなに楽しく生きられる
かつては“正社員で働く”とか“ちゃんと稼ぐ“が絶対条件だった私が、こんなふうにフリーで仕事をするようになるなんて、夢にも思いませんでした。どこかの病院に所属したり、正規で働いているわけではなくても、こんなに楽しく生きられるなんて!!!
子育てと仕事と家事でただ毎日が終わっていった十何年間、私、ずっと苦しかったんです。自分が苦しかったということがわかったこと、そして、“ちゃんと”社会の輪の中で生きなくても、こんなに自由に好きなことができて、好きなところに行けて、お金を稼ぎ、お金を回すことができて、その中に楽しく自分が存在していられる世界があるということを知ったこと。これは本当に私の財産です。
養育里親として、親子に真の意味でのサポートを届けたい
最近は、養育里親としての活動も始めました。養育里親としての勉強をした後、今は5歳と4歳の男の子をショートステイで預かっています。実際に自分がこの制度に関わるようになり、また同じように養育里親として活動されている方たちとの任意の会合の中で、行政や地域が行なっている親子をサポートする仕組みの落とし穴が見えてくるようになりました。
今のシステムでは、お母さんが一人ぼっちになっているような気がするのです。子どもを預かっている私たちとお母さん、また同じ子どもを預かっている里親同士がしっかり連携できる仕組みになっていないのが現状で……私が預かっている子どもにも、私以外の里親さんがいらっしゃるのですが、その方とお母さん、そして私、みんなでこの暴れん坊たち(笑)を共に育てていく体制が必要だと思うのです。もっといえば地域全体で、子どもだけでなく、お母さんも含め両方をサポートするシステムやつながりのコミュニティづくりが必要だと痛感しています。今のシステムでは、ただでさえメンタルが弱っているお母さんがさらに孤立して孤独感を強めてしまう危険をはらんでいるように見えて……それでは真の意味でのサポートとは言えません。
両親から受け継いだ“コミュニティづくり”への想い
最初にお話ししたように、お先真っ暗な気持ちで訪問看護の管理者をやっていた人生どん底の10年前には、10年後の自分が今のように自由にやりたいことをして生きているなんてもちろん思ってもいなかったので、この先10年後の自分が何をしているかも同じようにまったく未知数ですが、少なくとも、女性が自由に、どこで何をしていても生き辛くない世の中を創るサポートをしたい、コミュニティで子どもと女性を支えたいという想いはこれから先常に変わらず私の中にあるように思います。
私のそんな想いには実は両親の影響もあって……私の母は早くに母親を亡くしているのですが、床屋をしていた父親(私の祖父)は忙しかったため、母を含む4人の子どもたちは、近所の人たちに朝起こしてもらい、ご飯を食べさせてもらい、学校へ送り出してもらっていたのだそうです。そんなふうに地域コミュニティに育てられた母の周りには、いつも近所の人たちが集まってきていました。子どもの頃はいつも近所の誰かが我が家にいたりして(笑)。また、父は、亡くなる時、“この家をコミュニティハウスのようにして使ってほしい”という遺言を遺していきました。そんな両親の想いが私の中にも受け継がれていて、そしてそれは、どうやら私の娘にも受け継がれているようです。
「あなたは一人じゃない」を伝えたい
娘は保育士になったのですが、両親の家を使って、看護師の私と保育士の娘とで、お母さんと子どもをサポートする事業、子どもをコミュニティ全体で育て、女性の心の健康をサポートするような事業が何かできたらいいね、と話しています。
どん底の中で美穂子先生にただ寄り添ってもらい私の中で何かが溶けたあの時のように、私も、「あなたは一人じゃない」ってことを、これからも伝えていきたいと思います。