池ノ谷百合子(埼玉)
ベーシックグランドマスター
何不自由ない生活のようにみえて、友達との付き合い方がわからず、家の中には自由がまるでなく、仕事も長続きせず、ようやく見つけた「やりたい」仕事はリストラされ、つかみどころのない靄の中で生きているような思いに囚われ続ける。その思いを払拭しようとセミナージプシーを重ねた末にたどり着いた場所はーーー
目次
感情を外に出せなかった子どもの頃
昔から地主だったような大きな家に生まれました。きょうだいは3歳上の兄が一人。5歳のときと10歳のとき肺炎で入院したことがありましたが、大きな病気やケガといったらこのくらいで、虐待を受けたとか事故に遭ったとか、そんなこともありません。
親から「あんたはいつも何を考えているかわからない」と言われるような、淡々とした、冷めた子でした。駄々をこねるようなことをした記憶もなく、あまり感情を外に出すことはなかったように思います。
子どもの頃、友達らしい友達がいませんでした。友達ってどんなものなのか、どういう風に付き合えばいいのかわからなかったんです。小中学生のときって、何かをするときに「ペアを組みなさい」と言われるじゃないですか。でも、私には「一緒にペアになろう♪」みたいな友達がいなくて、いつも一人でした。
「家」を嫌いに
さらに、高学年になると男子に「自慢ばばあ」とあだ名をつけられたりして。池ノ谷家は地元では誰もが知っているような家系で、しかも私の家は本家で、家も大きく車が何台もあったんです。何気なく家の話をすると、「池ノ谷の自慢が始まった」と男子に揶揄され、反論すればするほどドツボにはまっていくような感じでしたね。
だから、だんだんと「家」が嫌になっていきました。「なんでうちは普通の家じゃないんだろう」と親を恨み、ひどいときには両親がいなくなればいいのに、と本気で思っていたくらいです。
いじめられ、非行に走る中学時代
中学校に入るとますます友達がいなくなって、休み時間もずっと一人でした。吹奏楽部に入ったのですが、部活では先輩からいじめられて。その先輩を殺したいと思っていました(苦笑)。中2の頃には、毎日「どうやったら楽に死ねるんだろう」と考えていました。アームカットもしていたし、この頃はかなり病んでいたかな。でも、相談できるような友達もいなくて。非行と言われるような悪いことを一通り経験したのもこの頃です。
父とはよくお金のことで喧嘩しました。酔って帰ってくると、財布からお金を出して私に渡そうとするんです。それがすごく嫌で。お金に紐がくっついているような感じがして。「そんなのいらない」と言うと、「俺の金が受け取れないのか」と父がキレる。その繰り返しです。「ただ先祖代々の財産を受け継いでいるだけなのに何が偉いの?」と思っていました。
この頃はとにかく、すべてが嫌でしたね。夢も希望もなく、やりたいこともなく、先がまったく考えられなかったです。唯一漫画やアニメは好きだったので私立高校の美術科に行きたかったのですが、親からは即却下。仕方なく、県立高校の英語科に入学しました。
「変わらなきゃ」と行動した高校時代
高校では「変わらなきゃ」と思ってグループに入ったのですが、やっぱりうまくいかなくて。グループの中でも二人組ができちゃって、私は余ってしまって結局一人になるんです。スクールカーストでいったら中の下くらいな……(苦笑)あまりぱっとしない女子高生でしたね。ただ、とにかく自分でお金を稼ぎたかったので、両親に辞めろと怒られながらもファミリーレストランやティーン向けの洋服屋さんでずっとアルバイトをしていました。
高3になると、子どもの頃から続けていた書道が全国大会で評価され、書道が盛んな大学から推薦入学の話が来たのですが、ずっと書道をしなければいけなくなるのが嫌で(笑)進学先は書道とはまったく関係のない、新設大学の英米地域研究学科を選びました。
ネットワークビジネスに熱中
大学では友達はできましたが、仲良くなるのは男の子ばかりで女の友達はほぼいませんでした。大学の4年間は、バイトして稼いで、暖かい季節はバイク、冬はスノボ、みたいな感じでしたが、特に20歳の頃にネットワークビジネスを始めてからは、お金を稼ぐことばかり考えていた気がします。
牛丼屋さんでバイトをするかたわらネットワークビジネスに熱中し、多いときには月に50万円ほど稼いだことも! バイトを続けつつこのビジネスで稼いでいこうと思っていたので、4年生になっても就職活動らしい活動はまったくしませんでした。そして、就職せずに牛丼屋でバイトをしながらネットワークビジネスで食べていくことを両親に告げたのは、大学の卒業式のちょうど一週間前。そのときの池ノ谷家の荒れようといったら、凄まじかったです……母はヒステリーを起こし、父は「勘当だ! 家を出ていけ!」と喚き、見るにみかねたおばあちゃんが止めに入ったほど。好きにさせてほしいと土下座して頼みましたが許されることはなく、結局、近所の方の紹介で、市内の産婦人科の受付で働くことになりました。
が、仕事を始めて3日目には「辞めたい」と病院の事務長に伝える始末(笑)。地元の産婦人科の受付というのは精神的にも肉体的にもあまりにもきつすぎて。でも、紹介で採用してもらった職場だったので、親からも怒られ、事務長にもなだめられ……。
仕方なく続けることにはしましたが、同僚は既婚者ばかりだったので、ここでも私は一人です。お金は持っていたので、仕事が終わったら職場近くのショットバーに入り浸り、夜中に家に帰って翌朝出勤するというような生活を2年ほど続けました。
この病院を辞めてからが、私の放浪人生〈仕事編〉の始まりです。
産婦人科の受付を辞めた後、就職情報誌で正社員を募集している会社を10社回りましたがどこからも採用されず、ようやく採用されたのが築地の魚問屋での営業事務の仕事です。社長を含め社員3人のこの小さな会社で1年ほど働きましたが、そのうちに、自分がここで何をしているのかがよくわからなくなって。
楽しかった仕事、そしてリストラ
PCを使って何か創ることがしたいと思い立ち、会社を辞めてウェブプロデューサーの学校に半年ほど通いました。その後、出版社にアルバイトとして採用され1年半ほどウェブ制作の仕事をしたのち、編集プロダクションに1年ほど出向。
この時期は本当に楽しかったです。仕事が楽しいと思ったのも、「この仕事をずっと続けたい」と思ったのも、私にとっては初めてのことでした。それなのに、2年半後、いきなりリストラされてしまって。ショックでしたね……次に何をしていいのか、どうやって仕事を探せばいいのか、本当にわからなくなってしまいました。外に出ることができなくなり、いわゆる引きこもりの生活が1年ほど続いたでしょうか。
「いい加減働かなきゃ」と気持ちを奮い立たせて派遣会社に登録しデザイン会社で働き始めましたが、今度は仕事がきつすぎて体を壊し、4カ月で退職。もうなんだか、何もかもが馬鹿らしくなってしまいました。あれほど熱中していた「お金を貯めること」すらも意味のないことに思えて。
そのとき思い出したのが、出版社をクビになって引きこもっていた時期にふと目にしたワーホリ(ワーキングホリデー)です。
ワーキングホリデー時代
そして、ワーホリが可能な年齢ギリギリでカナダに行きました。もちろん親からは縁切り同然です。永住権を取ろうと思っていたので、英語のレジュメを日本で用意しスーツも持って準備万端でカナダ入りしたのですが、最初はまったく英語が通じなくて……どのくらい通じなかったのかというと、マクドナルドで注文ができないレベルです(笑)。
最初はホームステイしていたのですが、同じ家庭にステイしていた日本人留学生と仲良くなり、ひょんなことからBBSHでヒーリングを学んだヒーラーさんを紹介してもらうことになりました。ちょうど、日本でも江原啓之さんが注目を浴びるなどスピリチュアルなことが流行りだした頃です。これが私とヒーリングとの出会いです。それ以降、ヒーリングを受けると何かが動き出すという体験を何度もしました。
絶縁状態だった親と連絡を取る流れになるなど、とにかく「受ければ変わる」ので、半分依存的にその方のところに通いつめ、ヒーリングを学ぶコースを取ったり瞑想会に参加したりしていましたね。
カナダにはワーホリ期間含めて4年ほど滞在しました。ワーホリ終了間際に留学代理店のウェブデザイナーの仕事を見つけたんです。就労ビザを取ってこの会社で3年くらい働きましたが、最大級にブラックな会社で……(苦笑)。
精神的にも肉体的にもどんどんきつくなっていき、「私は何をやっているんだろう。何のためにカナダに来たんだろう」という、おなじみの場所に落ち込んでいったんです。そしてある日のヒーリングの後、急に日本に帰らないといけない気がしてきて日本に帰ることにしました。
セミナージプシーとなった帰国後
日本に帰国したらしたで、今度はセミナージプシーの始まりです。オーストラリアまで行ってチョークアートのティーチャーコースに通ったり、いくつかの瞑想を習ったり、粘土を使った心理学やチャネリング、マッサージ、リンパドレナージュ、メディカルアロマ、パワーストーン……誰かに「いいよ」と言われると、それがいいのかと思ってお金を払って学んでみるのですが、それをどういうふうに活かせばよいのかもわからないし、第一本当にしたいと思って通っているわけではないのでイマイチ面白くないのです。カナダで通っていたヒーラーさんの影響で、BBSHで学んでみたいという思いは漠然と持っていたのですが、その頃はすでに日本校も閉鎖されていて。
美穂子先生と出会ったのは、こんなふうにセミナージプシーを2年ほど続けた頃のことです。
実はこの出会いには面白い伏線があって‥‥‥私、「バーバラ・ブレナン女史(BBSHの創設者)に関連する“本物”に会わせて欲しい」と宇宙にお願いしたことがあって、そうしたら美穂子先生と出会う流れになったんです! 宇宙にお願いするとか引き寄せとかそんなことを考えてやったつもりではなかったのですが、結果として、願いごとが叶ったわけです。
「やりたいことがわからないことです」と言われた衝撃の出会い
初めて参加したのは、確か、オーラが見えるようになるとかそんなタイトルの講座だったと思います。
この日私は、全身に電気が走るような体験をすることになります。
それは美穂子先生のこんな一言でした。
「マゾキストの特徴は、やりたいことがわからないことです」。
その頃全盛だったのは「やりたいことをやりましょう」というメソッドでした。けれども私はずっと、自分のやりたいことがわからなかったんです。やりたいことをやりましょうと言われるたび、「そのやりたいことがわからないなんて、私はなんてダメなんだろう」と自分を責め続けていた私にとって、この一言はすごい衝撃を持って入ってきました。
貯金も底をつきそうになっていたけれど、この一言で、私はキャラクトロジーを学ぼうと心に決めました。東京で開催される講座に参加し続けているうちに事務のお手伝いをするようになり、しばらくして正式なスタッフとなってからも、リリースされる講座はすべて受け、今もずっと学び続けています。
一変した家族との関係
キャラクトロジーを学んで一番大きく変わったのは、家族との関係性です。
私、実家では、兄と襖一枚で隔てられた部屋に住んでいたんです。子どもの頃の話ではないですよ。大人になってからもずっとです。ちょっとこれ、変ですよね? でも私は、キャラクトロジーを学ぶまで、それが変だと思わなかったんです。学び始めてようやくその奇妙さに気づき、40歳のとき、日本で初めて一人暮らしを始めました。
その1年後、家族のサポートで自分のマンションを手に入れました。お金のことでたびたび大喧嘩し、父からお金をもらうことを嫌悪し、家を出て自由になりたい一心でとにかく自分で稼いでお金を貯めようと仕事をしてきた私ですが、キャラクトロジーを学ぶようになってからは、「これがこの人たちの愛情表現であるなら、それはもう仕方がないな」と思えるようになったんです。私が本当に欲しかったのはお金ではなく、愛のある言葉や態度でしたが、でも、父も母もそのやり方を、ただ、知らなかったんです。彼らにとっての愛がお金や物質的なものであるなら、それはそれで受け取ろう、と。
最初にお話しましたが、私は「家」が憎くて、親さえいなくなればと心から願っているような小学生でした。でも、少なくとも今は彼らのことを理解し受け入れることができるようになっています。たまに「この人たち、かわいいなあ」と思うこともあるくらいです(笑)
自分で自分の人生を生きる
どんなに学んでも、どんなに癒しても、いまだにどうすればいいのかわからないことも多くあります。へこんだり悩んだり、自分を激しくジャッジしたりすることも今でも多々あります。でも、あれだけつかみどころのない、靄の中を歩いているようだった私の人生が、今では自分が手綱を握り向かう方向を決めている、そんな感覚に変わっています。
自分で自分の人生を生きると決めると、ときに自己責任に押しつぶされそうになることもありますが、それでも私はこれからも、自分の人生を自分で生きていきたい。そう思っていますし、私の経験が、自分の人生を生きている実感のないままに生きているかつての私のような方が人生を自分の手に取り戻すためのサポートになると信じています。